- 作者: 北原亞以子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/09/28
- メディア: 文庫
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月明かりに淡く浮かんだのは蹲る父と、鼻の脇に大きなほくろのある男。あのときは、幼子の見間違いと誰も相手にしなかったが…。建具職人の弥兵衛はなぜ刺し殺され、敵はなぜ逃げおおせたのか。月夜の晩から十一年後、敵は江戸に舞い戻る。惨劇の記憶が弥兵衛をめぐる人々の消せない過去をあぶり出し、娘を殺された慶次郎の古傷もうずく。文庫版大幅改稿で送るシリーズ初長篇。
北原亞以子さんの代表作、慶次郎縁側日記シリーズの第十一巻です。前作は文庫化されるまでにだいぶ待たされましたが、今作は前作からわずか半年で発売されました。最近は私にとってのビッグネームの新作が続いています。この慶次郎シリーズも新刊が出るのを首を長くして待ち、欠かさず読んでいる一作。常に登場人物の目線で語られる独特のハードボイルドな文章、それでいて全体に非常に優しい雰囲気が醸し出された捕物帖です。良い意味で「芝居がかってる」時代小説だと思います。
とはいえ、シリーズ名にもなっている主人公の守口慶次郎は、すでに現役を引退して婿養子に家督を譲り、家を出てとある大店の寮番として余生を送っている元定廻同心。この小説で取り扱われる事件は、町方が真面目に取り上げないような微妙なものだったり、あるいは事件そのものを横から眺めていたりと、言ってみれば正面切って事件解決をするような物語ではありません。
特にここ数作はその傾向が強く、時には事件らしい事件が全く起きないとか、慶次郎さえも登場しないこともしばしば。それでも、事件が起きるも起きないも紙一重な不安定な暮らしの上で、ギリギリ一線を越えずにこちら側に踏みとどまる危うい人間模様をを描いた、捕り物のない捕物帖です。事件は起きないけれど、北原さんの独特の文章から情景を思い起こし、想像の中の江戸の雰囲気と空気を楽しむ、人の心の揺れ動きを感じる… それがこの作品の特徴であり私が好きな部分でもありました。
しかし今作はがらりと様相が変わっています。いや、がらりと変わったのではなく、今作は不幸にも”ギリギリ一線を踏み越えてしまった”人々を描いたもの、と言うのが正しいのかも。実際、慶次郎の視点を借りて「あの時もし階段のもう三段下にいたなら…」とか「あの日、あと四半時でも時間がずれていたなら…」という、タラレバな未練がましい言葉が並んでいます。ごく些細なことをきっかけにして転落してしまった不幸な人々。それこそが今作のテーマなのでしょう。
そして慶次郎シリーズには珍しく、短編集ではなくて長編となっている上、非常に多くの人物が登場し、その人間関係は複雑です。二組の夫婦を中心に、たくさんの男女が絡み合い、愛憎劇を繰り広げる複雑奇っ怪な事件。ラストのシーンは北原さんらしい、非常に美しい幕切れでしたが、正直なところ、北原さんの切れの良い、言葉の少ない文章から読み取るには、ストーリーがとても難解で、状況をつかむのに精一杯。読んでいて疲れてしまいました。
慶次郎シリーズは、実は最初の第一巻がとても救いのない薄暗くて非常に悲しい物語でした。それがあればこそ後の慶次郎の安楽な隠居生活と、その周囲で、転落直前に踏みとどまる人々の物語を楽しめたのかも知れません。今作は久々にそれに近い救いのなさが感じられます。しかしバッドエンドかというと実はそうでもなく… うーん、難しいところです。私にはまだ早すぎただけで、これはこれで北原節の真骨頂なのかもしれません。
【お気に入り度:★★★☆☆】