冤罪を晴らすためにJリーグと戦ったとあるサッカー選手の物語「争うは本意なら」など:冬の間に読んだ本3冊

投稿者: | 2019年4月13日

 年明けからこの冬の間に読んだ本の記録です。前回の読書感想文エントリーで「久々に時代小説に復帰した」みたいなことを書いたそばから、今回はまた時代小説ではないジャンルのものに手を出してみました。

 私は美しい言葉と文章で書かれた空想の世界(=フィクション)が大好きな一方で、基本的にリアリティのあるドキュメンタリーも好きなのだろうと思います。時代小説というのは往々にして、その両方の要素を兼ね備えているものですが、それぞれの要素を個別に突き詰めた読み物にも最近は強く興味を惹かれます。

 さて、最初に紹介する一冊は現代物のドキュメンタリーで、タイトルにも書いたとあるサッカー選手のお話です。もう一つはちょっと風変わりな社会学の本。これもある意味ドキュメンタリーかも。そして残りの1冊は現代物の小説です。

争うは本意ならねど 日本サッカーを救った我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール:木村 元彦

我那覇和樹を襲った、日本サッカー史上最悪の冤罪事件。沖縄出身者として初の日本代表入りを果たした彼のキャリアは、権力者の認識不足と理不尽な姿勢により暗転した。チームやリーグと争いたいわけではない。ただ、正当な医療行為が許されない状況を何とかしなければ。これは一人の選手と彼を支える人々が、日本サッカーの未来を救った苦闘の記録である。覚悟と信念が宿るノンフィクション。

 事件があったのは今から10年以上前の2007年のこと。この我那覇選手のドーピング疑惑は、当時それなりにマスコミを騒がせたそうですが、私自身はJリーグにしろワールドカップにしろ、サッカーは全くといって見ない方なので、そんなニュースやゴシップを聞いた記憶は全くありません。更に言えば我那覇選手自身を知りませんでした。

 なので、本来題材に興味はなかったはずなのですが「ドーピング疑惑をかけられ、一度は有罪とされた判定を国際機関に訴えて覆した」というどんでん返しドラマに興味を持ちました。

 そんな話を知ったきっかけは、またもやたまたま出会ったネット記事です。
 Jリーグと言えば、日本のプロスポーツ団体としては比較的新しく、ドーピングに限らず色々な面で先進的な運営がされているというイメージを持っていました。しかし、上にリンクを張った記事と、さらにこの本を読むとそんなイメージは吹き飛びます。

 浅はかな経緯で理不尽な裁定を下し、保身とメンツのためにそれを撤回できなくなったJリーグという組織に対し、悪しき前例を作ってはならぬと、被害者である我那覇選手と医師達が戦う勧善懲悪なストーリーは、まるで池井戸潤氏の小説を思わせるかのようです。

 しかしこれは紛れもないドキュメンタリーであり、実際に起きたことです。結果的に真実は認められ、正義は勝ったとは言え、読後感がスッキリしているかというと、それは微妙なところです。

 なぜならば、一人の有能なサッカー選手が、この事件によって失ったものがあまりにも大きすぎるから。名誉は挽回したけれども、失われた時間と(色々な意味での)ポジションは戻ってきませんでした。

 その一方で、巨悪の面々達は今でも大きな顔をしてそれなりの地位に留まっているという不公平は、フィクションではないリアルな世界ならではの結末なのだろうと思います。

断片的なものの社会学:岸 政彦

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ…人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。

 社会学者である岸政彦氏の著作です。岸氏は社会学者でありながらも、著作が芥川賞にノミネートされたこともあり、作家として紹介されている場合もあります(ご本人はそうは思ってないようですが)。この本もタイトルに「社会学」という言葉が入っていますが、どっちかというと小説に近い立ち位置の作品だと思います。

 そうは言ってもこの本もフィクションではなくある意味のドキュメンタリーです。と言うのは、この本に収録されている様々なエピソードは、岸氏が社会学の質的調査の一環として長年にわたって行ってきた、様々な人へのインタビューがベースとなっているのです。

 特に有名でも何でもない個人が語る人生録は、こうして誰かが聞き出さなければどこかへ消えてしまったはずのもの。特に波瀾万丈な生活を送ってなくても、一人一人の人間には、その人だけが経験した人生があるわけで、その何でもないエピソード感が、むしろとてつもない奥行きを感じさせます。

 社会学の本でも論文でもないので、それらのエピソードは分析もされないし、解釈もされません。何かのデータの一部になったのかどうかも分かりません。むしろ、そういう解釈や分析を拒否する、これ以上分解も分類もしようがなさそうなストーリーばかり。

 そう言えば昔、ボブ・グリーンのコラムが好きで読んでいたな、ということを思い出してしまいました。ボブ・グリーンの書くものも、やはりその辺で偶然出会った普通の人々のお話でしたが、どこか意味づけや教訓を求めていた気がします。それはそれで読みやすくて読後感もよかったのですが、この本は、何というかもっとハードボイルドで、スパッと突き放されて終わってしまう、突如場面が転換する感じがまた味わい深く、まるで古い私小説のような趣があります。

 なので芥川賞候補になったことがある(これとは別の作品です)と言うのは、なるほどと頷けます。この世の中はこうした、観測不能なドラマで一杯なんだな、ということを改めて感じました。

舟を編む:三浦しをん

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

出版社の営業部員・馬締光也(まじめみつや)は、言葉への鋭いセンスを買われ、辞書編集部に引き抜かれた。新しい辞書「大渡海(だいとかい)」の完成に向け、彼と編集部の面々の長い長い旅が始まる。定年間近のベテラン編集者。日本語研究に人生を捧げる老学者。辞書作りに情熱を持ち始める同僚たち。そして馬締がついに出会った運命の女性。不器用な人々の思いが胸を打つ本屋大賞受賞作! 馬締の恋文全文(?)収録!

 現代物の小説で何か良いのないかな~?と探しているときに、友人が推薦してくれた本です。三浦しをん作のベストセラー小説で、映画化もされた上にテレビではアニメ化までされたそうです。いや、そこまでだとは全然知りませんでした。

 内容について全く事前知識も先入観もないままこの本を手にした私は、舟を「編む」とはどういうことか?という疑問が真っ先に浮かんできましたが、その謎は読み始めてかなり早い段階で解けました。なるほど「舟」というのは「辞書」を指す比喩で、「編む」とは「編集」あるいは「編纂」ということなのか、と。

 小説の舞台がいつ頃のものなのかはよく分かりませんが、そんな昔ではなさそう。かといって、スマートホンが普及した現代でもありません。電子化、デジタル化、ネットワーク化が著しい今の時代、この小説に出てくる辞書の作成の作業は、いかにも時代遅れに感じてしまいます。

 紙質にこだわり、一つ一つの文章にこだわり、漫然とただ並んでいるかのような言葉の羅列は、実はページ毎にレイアウトにもこだわっているという、その舞台裏の丁寧な作業には本当に敬服します。一方で、こうやって美しい紙の本を作るという作業は、もう時代が許さないのではないかと思えてきます(実際のところは分かりません)。

 そういった一種のノスタルジーは、恐らくこの小説が書かれたときに作者が意図したものではないのだろうと想像しますが、その「時代が違う」という感覚は、恐らく本来のこの小説の味わいに大きな変化を付け足しているのではないかと思います。

 それはそれとして、10年以上に及ぶ大プロジェクトを完遂する大河ドラマであり、素晴らしいラブストーリーでもあり、なるほどこれがベストセラーになったことに頷けました。