全国的に良い天気に恵まれた先週末、前回のエントリー「初めてのアストロトレーサー:福島県のとある山里で天の川を撮る」にも書いた通り、福島県の人里離れた田舎へ遊びに行ってきました。何をするわけでもなく、インターネットもない自然豊かな森の中でノンビリ過ごすのが目的でしたが、そうは言ってもせっかく東京から車を200kmほど走らせてきたので、途中でちょっと観光地に寄ってみました。
その目的地とは白河駅のすぐ近くにある白河小峰城です。ちょうど東北道の白河ICからもほど近く、アクセスは抜群。久々の百名城スタンプを押すためにカバンの中にはスタンプ帳を忍ばせておきました。あらかじめ決まっていた訪問先ではなく、現地で恐る恐る同行友人達に提案してみると、あっさりと受け入れてもらいました。
城跡としてはそれほど規模が大きくなく、1時間もかからずに全て見て回れる程度ですが、百名城に登録されることからも明らかなように、歴史的には江戸時代から幕末にかけて、いろいろな由緒がある城です。
さらには、6年前の東日本大震災ではほとんどの石垣が崩落するなど、大きな被害を受けたこともあり、短い時間の見学中にもいろいろな思いが頭によぎり、とても印象深い史跡となっています。
2011.3.11の爪痕
駐車場から城山公園に入ったところでいきなり目に入るのがこんな看板です。
現在では月2回の測定が行われており、直近の測定値は0.19μSv/hと表示されていました。この値自体がどうこうということではなく、こうした看板が整備されてメンテされ続けていることにドキッとします。そして原発事故はまったく片付いていないという当たり前のことを今更思い出します。
奥へ進んでいくと堀の跡のような凹みがあります。空堀にしてもちょっと浅すぎますね。説明書きの看板のようなものは見当たりませんでした。そしてその向こうには石垣が見えてきます。でも様子がちょっと変です…。
小峰城の石垣は東日本大震災の大きな揺れによって、10カ所で7千個の石が崩落してしまったそうです。私自身はまったくそんなことは知りませんでした。東日本大震災で東北各地が受けた被害はあまりにも多すぎて、テレビでしか見ていなかった自分は極々一部しか知らないのだ、ということに改めて気付かされます。
修復作業は約3年半前から始まり、現在もまだ続けられています。
美しい切込接の石垣
どんどん中へ入ってみましょう。いかにも攻めにくく作られた細い枡形の通路を抜けて本丸の方へ上がっていきます。
小峰城は石垣も非常に美しいです。比較的小ぶりで良く揃った石を丁寧に加工して積んだ切込接で作られています。この複雑な形状をした部分にも櫓などが建っていたのでしょうか?
この部分は真ん中あたりに明らかな継ぎ目があります。右の方は古く左は新しそう。左側は東日本大震災で崩れ、積み直した部分でしょうか?
復旧された石垣の一部。左の方に半円形を描いた特徴的な模様が組まれているのが白河小峰城の石垣の特徴です。崩れてしまったこれらの石はほとんど加工することなく積み直したそうですが、複雑なパズルのようなものだったのでしょう。ちゃんとオリジナルの石垣同様の模様が再現できたそうです。
桜門と名付けられた小さな門跡。近くで見てもきれいに切りそろえられた石積みは見事です。この石垣が作られた年代は分かりませんが、恐らく現在も残る遺構のほとんどは江戸幕府成立後に、白河藩の居城として丹羽長重が整備したものをベースに、江戸時代を通して維持されてきたものと思われます。
桜門跡の細い階段を登り切ると、いかにも城と言った風情の広場に出ます。その角には白河小峰城のシンボル、三重櫓とそれに続く前御門が聳えています。規模は大きくありませんが格好良いですね。
多くの城跡がそうであるように、天守や櫓の前に広がる広場は、元々本丸があった敷地です。天守が現存する城はあっても、本丸が残っている城跡はほとんどありません。
白河小峰城は江戸時代約250年あまりの間に、7家21代が代わる代わる移封され支配がめまぐるしく変わった城です。その中には田沼意次から老中の地位を引き継いで寛政の改革を行った、白河侯こと松平定信もいます。
ちなみに白河城を支配した7家21代の殿様のリストもありました。最初は丹羽氏、榊原、本多、松平が3家続いて、最後は阿部氏。この名字を見ているだけで将軍家に近い譜代が多いことが分かります。会津松平家含め、福島県は徳川幕府にとってそれだけ重要拠点だったということでしょう。
最後は戊辰戦争で奥州列藩同盟と新政府軍が激突し、白河城は陥落。その際にほとんどの建物が焼失しています。
木造復元第一号となった三重櫓
三重櫓は内部も公開されています。しかも見学料が無料という太っ腹ぶり。早速中に入ってみましょう。
本丸のあった広場から長い階段を登って…
入り口までやってきました。三重櫓前もちょっとした広場になっています。
そこには「おとめ桜」と名付けられたとても立派な桜の木が立っています。白河小峰城の築城初期に、石垣がどうしても上手く積めず崩落が相次いでいたときに、いわゆる生贄として「人柱」にされた女性を供養するために植えられたものだとか。
半分は伝説かも知れませんが、古くからこの名と由緒をもつ桜があったのは事実で、これもオリジナルは戊辰戦争で焼けたため、現在の木は後に新たに植えられた二代目の「おとめ桜」だそうです。立派な木なので、桜の時期はさぞ綺麗なことでしょう。
さて、いよいよ三重櫓の中へ。現在の三重櫓が木造で再建されたのは今から約27年ほど前のこと。昭和30年代に復元された各地の天守が全てコンクリート造りで、外見の復元にのみ力を入れていたのに対し、最近はオリジナルと同様の建築方法によって木造で再建する流れになってきています。
この白河小峰城の三重櫓はその木造再建の走りとなった建物だそうです。それは、江戸時代に修復した際の詳細な図面が残っていたことが大きなきっかけとなったとか。
なお、東日本大震災では石垣の多くが崩れてしまった中で、三重櫓とそれを支える土台の石垣は地震の揺れには耐えたということなのでしょう。もちろん細かい部分は色々あったのかも知れませんが、特に大きな被害を受け、修復をしたようなことは書かれていませんでした。
三重櫓一階部分の床板には、何カ所かこのような表示がありました。平成に再建したというのになぜ戊辰戦争の痕跡が?と不思議に思いますよね? もしかしたら一部焼失を免れた木材が残っていて、それを再利用しているのか?と思いましたが、そうではありませんでした。
ボランティアの方の解説によると、白河近郊の松並稲荷山で激戦が行われた際に被弾した杉の木から木材を切り出し、再建に使用したものだそうです。泰平の江戸時代、戦の砦ではなく、行政庁舎として使われてきた城ですが、東北のいくつかの城がそうであるように、白河小峰城にとって最後の最後に実戦に使用されというのは非常に大きな出来事です。なので、わざと戊辰戦争の痕跡をここに使ったという意味とその目的は非常に良く分かります。
さて、三重櫓ですから中は三層になっています。そうは言っても他の城の天守と比べるとかなり小さな建物なので、二層目に上がる人数は5人までとされています。この日は待ちが出来るほど混んではおらず、すぐに上がることが出来ました。階段もオリジナルに近く、非常に急で登りにくくなっています。特に降りるときは踏み外さないように注意が必要です。
三層目の最上部にはこのように「棟札」が掲げられていました。日付は平成2年4月となっています。元の櫓にもきっとかけられていたことでしょう。
なお白河小峰城ではこの建物をあくまでも「櫓」と呼んでわけですが、実質的に天守の役割を果たしていたようです。
本丸とは逆側の方、裏手では重機が入り足場が組まれ、今でも修復作業が続けられています。
百名城スタンプ12個目
ということで、百名城スタンプを押してきました。
スタンプを押すのにもかなり慣れてきました。これでようやく12個目をゲット。今年に入ってからは4つめです。
福島県内にはあと二本松城と会津若松城があります。どちらもアクセスの良い場所なので、いずれまたスタンプ押しに福島へ訪れたいと思います。
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