白雨

投稿者: | 2013年7月4日

白雨―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

白雨―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

滝のような夕立に、江戸が白く煙る午後、木綿問屋の宗右衛門が軒先に飛び込んできた。飯炊き寮番の佐七は煎餅をふるまって、老いの孤独な境遇を語りあう。普段は慶次郎だけが示してくれる優しい気遣いに触れ、佐七はうれしさを抑えがたいが、それを聞いた蝮の吉次は胸騒ぎが収まらない…。老境の日々を照らす小さな陽だまりを描く表題作ほか、江戸の哀歓を見守る慶次郎の人情七景。

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 北原亞以子さんの代表作とも言える「慶次郎縁側日記」シリーズの第十二巻です。単行本の発売はなんと五年も前のことですが、この文庫版は今年の五月にようやく発売されました。北原亞以子さんが今年三月に亡くなって、追悼の意味を込めて急ぎ発行されたものかと思いましたが、巻末の解説が今年二月に書かれていることから、ちょうど亡くなる頃に準備が進められていたものと思われます。

 前作「月明かり」が出たのは一昨年の年末のこと。ここ二作くらいは変則的なペースではありましたが、長期にわたって書かれてきたシリーズものの発行ペースとしては妥当なところです。

 もはやこのシリーズで展開される物語と、主人公である守口慶次郎の背景は説明することもないでしょう。江戸の人間模様を描き上げたその独特の世界は非常に美しいものです。「美しい」と言っても、そこに描かれているのは決して心根の透き通った善人や、格好いいヒーロー、あるいは立派な聖人君子が登場し、誰もが涙しそうな美談や、きれい事が書かれているわけではありません。むしろその逆で、弱くて自分勝手でどうしようもない人間たちと、そういった人々が織りなす残酷な運命や、どうしようもない出来事が語られています。

 しかし、この北原さんの筆によって紡ぎ上げられた、慶次郎の暮らす江戸の街は、何とも言えず美しいのです。

たばこの釣銭を幾度もかぞえなおす亭主に少々苛立っているうちに雨が激しくなった。一時は向かいの不動堂がかすんで見えなくなるほどで、雨が滝の水のように白く濁って見えた。白雨とはこういう光景をいうのかと、慶次郎は滝の裏側にいるような気分をあじわいながら、今更のように先人達の残した言葉のたくみさに感心した。

 今作の表題になっている「白雨」ですが、私はそんな言葉があることすら知りませんでした。ここに描かれているような状況に出会ったら、それは「ゲリラ豪雨」という表現しか思い浮かびません。真夏の激しい夕立、不意の大雨は江戸時代、いやそのもっと昔からあり、それを指す言葉が日本語にあったわけです。ちなみに「はくう」と打ち込んで変換キーを押せば、ATOKは一発で「白雨」と変換しました。決して失われた言葉ではないらしく、自分の語彙の少なさを痛感します。

 この慶次郎のいた煙草屋の前の道がどのくらいの幅だったか? 江戸時代を思えば決して太い道路ではないでしょう。その反対側が見えなくなるほどの激しい雨。傘を差して歩ける状況ではなく、雨の音で物音はかき消され、舗装されていない地面に跳ね返る水で足下が泥だらけになる様子、雨の臭いやムッとした空気まで感じられるような世界に入り込み、すとんと目の前に浮かんでくるようです。

 こうした情景の中で、繰り広げられる悩み多き江戸の人々の暮らし。お金、仕事、そして男と女。この世の理不尽な巡り合わせに右往左往する人々。そんな中に美しい情景がさらっと紛れています。

 たとえば貧困に苦しむおふくの実家のように。

良助になら多分、亭主の愚痴を存分にこぼせる。良助は「おっ母さんが女房になったんだろ。俺が女房になれと言ったんじゃねえ」と、偉そうな慰めを言ってるに違いない。

 あるいは二度も出戻りしたおはんにプロポーズする駒三のように。

三つも年上だからとおはんが駒三の申し出を断ろうとすると、駒三は遠慮がちに「だから、俺がおまえを介抱して、みとったあとであの世へ行ける」と言った。俯きがちに、ぼそぼそと優しい言葉を口にしている駒三は、頼もしく、好もしい男ぶりであるように見えた。

 このシリーズはいつの頃からか、捕り物のような体裁を取りながらも実際には何の事件も起きず、従ってだれも亡くならず、切った張ったの大立ち回りは起こらず、根っからの悪人が出てこなくなりました。一方で万引き、自殺未遂、夫婦げんか、そして詐欺… と言った人の心理に関わる事件が起きます。どれも町方が出かける話ではありません。でも、どんなに大きな強盗事件より、殺人事件よりも深い深い、そして美しいドラマが隠されています。

 慶次郎縁側日記シリーズは、すでに十三巻が単行本で発売されています。そして調べてみたところ、まもなく十四巻が発行されるようです。亡くなる前に原稿が書き上がっていたものでしょうか? おそらくこれが最終作となるのでしょう。あと二巻…。多くのシリーズものと同じく、この慶次郎の物語にもきっと落ちはありません。ましてや終わらせるつもりで書いてないならなおさらでしょう。いや、もしかしたら…?

 残りの二巻は文庫化される前に読んでしまおうかと思っています。。もちろん読んでない作品はまだ何作かありそうですが、慶次郎縁側日記のシリーズ読了とともに北原亞以子作品には一区切りを付け、私なりの追悼としたいと思っています。

 【お気に入り度:★★★★★】