この本は「風流冷飯伝」に続く三部作の完結編です。今回の主人公はくの一のお仙。退屈姫君伝の冒頭からめだか姫の右腕となり、時には悪者と果敢に戦い、時には江戸城に忍び込み、そして時には遠く離れた地まで旅をしたり、実力行使部隊の先鋒として、めだか姫の活躍を助ける重要人物です。めだか姫の目の前に初めて現れたときは、ぼさぼさのおかっぱ頭で真っ黒に日焼けし、つんつるてんの小袖を着たきりで、およそ女の子らしさとか可愛らしさとは無縁の天狗娘でした。この物語は、めだか姫達の冒険が終わった後のこと、紀州は熊野の山里に暮らすお仙の母親が病気にかかったという知らせを聞いて、お仙が江戸から熊野へと飛んで帰ったところから始まります。
いえ、正確にはこの本の冒頭で語られるのはもっともっと昔の話です。「退屈姫君伝」シリーズ三部作の完結編であり、お仙の物語だと知って読み始めたが故に、お仙もめだかも一八も誰も出てこず、見知らぬ人々が繰り広げるひたすらもの悲しくて暗いストーリーがいきなり展開し、面食らってしまいました。もちろんこの冒頭のエピソードは、その後のストーリー展開に非常に重要な意味を持っているわけで、その謎解きはゆっくりとされていきます。でも、勘のいい読者なら途中でそのからくりに気がつくはずです。作者もわざとそうし向けているのだと思いますが。
お仙の素性は「退屈姫君伝」シリーズを読んだ方はよくご存じのことかと思います。お仙の父親は、幕府御庭番の倉地家の手先を務める”むささび五兵衛”で、谷中の笠森稲荷の門前で茶屋の鍵屋を営んでいます。五兵衛はもともとは紀州熊野の忍びであり、お仙もその忍びの技を引き継いでいます。お仙の母親”からす”は江戸には出てこずに熊野の村で一人暮らし。兄の一八は忍びになることを嫌がり、あろうことか幇間になってしまいます。その一八を主人公にしたのが「風流冷飯伝」です。
さて「退屈姫君伝」シリーズは言うまでもなくフィクションであり、めだか姫自身はもちろん、風見藩とか、周辺の登場人物のほとんどは架空の人物です。しかし時代を田沼意次が権勢を振るった時代に設定し、当時の世情や政治状況、大事件などなど、歴史上の事実をうまく物語にも取り入れ、実在の人物達も出てきます。釣り駒を操り、江戸城にも侵入してしまう色黒の天狗娘のお仙は、めだか姫と同じくらい現実的にあり得ない人物像なのですが、実は笠森稲荷前の茶屋、鍵屋の看板娘のお仙という人物は実在していたのです。しかも彼女は錦絵を確立した浮世絵師、鈴木春信による美人画のモデルとなり、堅気の一般女性でありながら、江戸中の男達の人気者になりました。本物のお仙は、真っ黒な天狗娘とは似てもにつかない、江戸随一の美女だったそうです。
鈴木春信は笠森お仙のほかに、浅草寺前の楊子屋「柳屋」の看板娘のお藤も描きました。お仙とお藤は同年齢だったそうです。鈴木春信の浮世絵により、お仙とお藤は江戸中期、明和年間において、江戸を代表する美人として人気を二分することとなったそうです。しかし、実在の笠森お仙はそんな人気絶頂のさなかに、突然茶屋から姿を消してしまいます。彼女は幕府御庭番、倉地政之助の元へ嫁いだのです。武家と町人の結婚はあり得ないことではありませんが、一般的には非常にまれなケース。幕府御庭番の家柄ともなればなおさらです。
この二人が実際どういう関係にあったのかは分かっていません。いや、笠森稲荷の鍵屋の土地は倉地家のものだったこと、鍵屋を任された五兵衛は実際に倉地家の手先だったのは事実らしく、少なくとも地主と店子、主人と部下の関係にはあったのでしょう。それでもなお、身分の差を超えて結婚するに至った経緯はやはり謎ですが。そしてお仙がいなくなった鍵屋は、お仙の父親である五兵衛老人が一人残って店を細々と続けていたそうです。
と言うような、笠森お仙にまつわる歴史上の事実に対して、米村桂伍さんなりの異説というか解釈がこの「面影小町伝」です。お仙、五兵衛、倉地政之助、お藤、鈴木春信といった、実在した人物達を巻き添えにして、退屈姫君伝を通しての三部作に落ちをつける、あっと驚く奇想天外なストーリーが展開します。「退屈姫君伝」シリーズの最後で、作者の米村氏が、面影小町伝を執筆するに至った経緯というか動機というか、目的についてコメントを書かれています。それによると「事実としては笠森お仙と倉地政之助は結婚したが、私は断じてそうはさせたくないと思った。そこには何か裏があったに違いない。」と。
お仙と結婚した幕府御庭番の倉地政之助は「退屈姫君伝」シリーズにも当初から倉地の旦那として登場します。しかし物語中での扱いはあまり良くありません。人は好くて憎めないのですが、どこか抜けていていつも失敗ばかり。役目柄めだか姫達と対立したりもしますし、お仙にも馬鹿にされています。それは江戸随一の美女であった笠森お仙が、真っ黒な天狗娘として描かれているように、実際の倉地政之助がどういう人物であったかとは関係がありません。むしろ、お仙も含めて記録に残る現実の人物像からはわざと遠ざけて描かれているようにも思えます。それが歴史上の事実といかに融合していくのか?そこがこの物語の見所、読み所です。
「退屈姫君伝」シリーズや「風流冷飯伝」のような、痛快で軽快でおもしろおかしいお話を期待していたら、見事に裏切られます。確かにストーリーとしては、想像もつかないような展開と結末を迎え、アッと驚くことは確実。ミステリー仕立てでもあるので、先が気になって気になって仕方がない、とてもおもしろい小説です。
でも、私がこのシリーズを読み始めた当初の目的は、息抜きになるようなおもしろおかしいコメディ時代小説が読みたかったから。お仙はその中でもひときわ存在と行動と言動がナンセンスで、すばらしいキャラクターだったのですが…。でも、そんな退屈姫君伝ファン達の声には、久々に登場するめだか姫が応えてくれています。あの真っ黒な少女お仙は、いつまでたっても変わってないと。
最後に話は変わりますが、この小説内に米村さんなりの小説家観というか、この本に対する態度みたいなものが書かれていました。何となく気になる一節でしたので、引用しておきます。
おまえは遊子なのだ。世の中を斜に見て、野暮天をからかい、粋人を称える。遊興を賦とし、四季の風物を詠ずる。遊子にしか書けぬ狂文を出版しているからこそ、通人は喜び庶民は感心しているのだ。君子は怪力乱神を語らず、と言うが、遊子もまた、怪力乱神を語ってはならんのだ。
これは自分自身の野暮天をからかっているのでしょうか。それがむしろ粋なのかも。なんだか分からなくなってきました。転じて私自身はもちろん小説家ではありませんが、野暮天をからかい、粋人を称え、遊興を賦とし、風物を詠じていきたいものだと思っています。
お勧め度:★★★★☆(必ず退屈姫君伝シリーズと風流冷飯伝を先に読んでください)