時代小説の中でも江戸時代の終焉を扱った小説は、幕末ものとして一つのジャンルを形成するほど人気がありますが、私も昨年末あたりから特に徳川幕府の側から見た幕末史というものに興味が出てきました。これまで読んだ幕末もの小説は「まんがら茂平次」でしたが、これは歴史上に名を残す人ではなく、江戸の市民から見た幕末の物語として、フィクションでありながらも、当時の江戸の町の空気が直接感じられるすばらしい小説でした。
で、今回読んでみたのがタイトルにあるとおり、吉村昭氏の「彰義隊」です。タイトルからして江戸幕末ものであることは明らかです。江戸という街の終焉を語るに当たって、やはりそのクライマックスとなるのは上野の山の戦いと言えるでしょう。上野の戦いについては多くの幕末もの小説でも触れられているほどの大事件でした。その戦いにおいて、旧幕府軍の残党の中心となったのが彰義隊です。この戦争での彰義隊の敗北によって、薩摩、長州を中心とする官軍は本当の意味で江戸を制圧することができたと言えます。また、江戸市民にとっても徳川幕府の時代が本当の終わりを迎え、新しい時代がやってきたことを実感する出来事だったに違いありません。上野の山の戦いは、慶応4年5月15日(西暦1868年7月4日)の出来事。圧倒的な兵器の差によって戦いはわずか一日で決着が付きました。
この小説はそんな彰義隊の結成から敗北までを、赤穂浪士の物語のようにヒロイズムで描いた小説かと思ったのですが、実は中身は全く異なります。そうではなくてこの小説は、幕末期に上野寛永寺の山主であった輪王寺宮様の波乱の人生の物語です。寛永寺と言えば徳川幕府開闢以来、何人もの将軍の墓が置かれるなど、徳川将軍家と深い結びつきのあったお寺です。幕末期には徳川慶喜が謹慎していたのも寛永寺です。そして輪王寺宮様はその名前の通り、出身は皇族であり、後の明治天皇の叔父に当たる人。上野の戦争に先立って、朝敵となった徳川幕府を滅亡させるために江戸へと迫る朝廷軍、そして幕府の威力とともにあり江戸市民の信仰の対象であった上野寛永寺。輪王寺宮様は自分の出身と立場の板挟みとなります。
幕末期に朝廷出身でありながら徳川幕府側にいたために板挟みとなった皇族と言えば和宮様が有名です。十四代将軍、徳川家茂の正室として京都から徳川家に嫁ぎ、最後は官軍によって江戸城を追われた女性です。昨年のNHK大河ドラマ篤姫にも重要人物として登場したので、その経緯をご存じの方も多いことでしょう。(そういえば天璋院も薩摩島津家と徳川将軍家の板挟みになった人物でした)。一方でなぜかあまり有名ではありませんが、輪王寺宮様もまた、和宮様と同じように皇族出身でありながら幕末期に徳川幕府側にいた人物です。しかも明治維新によって翻弄されたその人生は和宮様よりもずっとずっと波瀾万丈だったと言えます。
輪王寺宮様と彰義隊の接点といえば、もちろん官軍との戦の場となった上野です。彰義隊が立てこもった上野の山の中心は寛永寺だったと言っても過言ではありません。そして結果的にこの戦争で寛永寺は破壊され焼失しました。輪王寺宮様はこの戦いがあった5月15日、避難することなく寛永寺に留まり続けました。これらは、輪王寺宮様は彰義隊側に味方したことを意味します。この小説では、輪王寺宮様が彰義隊、旧幕府軍に味方し、上野に立てこもるに至った事情と、上野での彰義隊の敗北以降、五稜郭の戦いで終わる戊辰戦争の歴史において、輪王寺宮様が果たした重要な役割と、その激動の流転の人生が語られています。なのになぜ「彰義隊」というタイトルがこの本にはつけられたのか? については、作者による後書きで解説されています。
最初に書いたとおり、私がこの小説を読み始めたのは、彰義隊そのものが目当てではなく、徳川幕府側から見た幕末に興味があったためです。そういう意味では内容が輪王寺宮様の話であったとしても、私の期待を裏切ることはありませんでした。むしろ、こんな数奇な運命をたどった人がいたんだ… ということを初めて知り、とても驚き、なぜ一般にあまり知られていないのだろう?と思ったほどです。いや、幕末史が大好きな人々にとっては当然知っているべき重要な人物であるに違いありません。でも、明治維新の嵐にこれだけ翻弄された数奇な人生を辿った人の物語にしては、彰義隊や新撰組や篤姫と比べて知名度が低いように感じますし、もっともっと小説に取り上げられ、ドラマになって語り継がれていても良いのではないかと思いました。
一方でこの小説は、非常に読み進めにくいと感じたのも事実です。どこまでが資料に基づいており、どこからが小説的演出なのかはわかりません。いや、吉村昭氏はこの小説を書くに当たって、地方に埋もれていた郷土史を発掘するなどして、輪王寺宮様の足跡を時間をかけて丹念に調べたことは後書きにも説明されています。むしろそういう資料を時間軸にそってまとめたドキュメンタリーという雰囲気もあり、浅田次郎氏の小説などに慣れた身からすると、盛り上がりに欠けると感じてしまった面もあります。それはそれで、この小説のスタイルであり味わいであることはわかっているのですが。
思いがけず出会った激動の人生を送った人物の大河ドラマに接して、先が気になって気になって仕方ないのに、なかなか読み進められないというもどかしさを感じた小説でした。
おすすめ度:★★★★☆(暇つぶしに読む小説ではないかも。テーマになんらかの興味があればお勧めです)