ほたる

ほたる―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

ほたる―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

川面に消えたほたるの光は、移ろう人の心の幻か。幼い異母妹と懸命に生きた貸本屋の男が、愛する妻の借金に戸惑う(「みんな偽物」)。悪い男に強請られる女が泣きついたのは、蝮の異名をもつ曰く付きの岡っ引き吉次だった(「ほたる」)。浮気、妻への暴力、ささやかな幸せにつけ込む債鬼の罠―江戸の市井で泣く人々を、心に鬼を飼う仏の隠居、慶次郎が情けで救う傑作シリーズ第十弾。

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東京駅物語

東京駅物語 (文春文庫)

東京駅物語 (文春文庫)

東京駅の建設現場で働く若者、ステーションホテルを拠点にする結婚詐欺師、歌人を目指して上京した娘…。それぞれの時代の夢が行き交う煉瓦の駅舎・東京駅。明治の建設当時から昭和の終戦直後に至るまで駅が紡いできた年月と、そこで交錯した人生を「グランドホテル形式」で丹念に描く、男と女の九つの物語。

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消えた人達

消えた人達―爽太捕物帖 (文春文庫)

消えた人達―爽太捕物帖 (文春文庫)

「探さないで」と置手紙を残し、忽然と消えてしまった幻馴染み弥惣吉の女房。健気で評判の女に何があったのか。行方を追って高崎、安中と中山道を辿る、鰻屋「十三川」の入聟で十手持ちの爽太。その探索行は、来し方を振り返る旅となる―。若き爽太たちの姿と江戸下町の哀歓を描く、情感あふれる傑作長篇。

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まんがら茂平次:北原亞以子

まんがら茂平次 (徳間文庫)

まんがら茂平次 (徳間文庫)

 

 浅田次郎氏の書いた明治維新もの小説「深川澪通り木戸番小屋」シリーズで有名な北原亞以子さんの作品です。これが面白くないわけがありません。

 時代はまさに明治維新のまっただ中。薩長の官軍が江戸に入る直前から始まり、上野の彰義隊の戦い、そして新政府が樹立され元号が慶応から明治へと変わり、江戸が東京と言う名に改められるまで。ところは神田の下駄新道。そこの長屋に暮らすごく普通の貧乏な町人達の物語です。主人公はタイトルにもなっている茂平次。小柄で色白で、少々太り気味、下がった眉と二重まぶたの目に愛嬌があり、着たきりの川越唐桟の着物さえ取り替えれば、大店の道楽息子にも見えなく無いという男です。

 そんな愛嬌のある茂平次につけられた「まんがら」という渾名の由来については本を読んでもらうとして、彼の得意技はなんと「嘘をつくこと」なのです。いや、得意技と言うよりも体に染みついて自然と口をついて出てくるもので、嘘をつきながらまるで本当にそうだったかのような気になってしまうと言う、正真正銘根っからの本物の嘘つきです。でも茂平次のつく嘘は罪が無くて愛嬌のある嘘ばかり。騙されたと分かっても何故か憎めず、誰も傷つけることなく(いや、もちろん金や物を手に入れるためにも使われるのですが)、時にはむしろその場の諍いを丸く収めてしまうほどの威力を持っています。いうなれば茂平次は究極の「空気が読めるやつ」と言えそうです。

 物語はそんな茂平次が幕末の暮らしにくい江戸の町で見る明治維新の嵐と、同じように維新に翻弄される人々との関わり合いを中心に進んでいきます。短編集の形式をとりつつ、それぞれの物語において、それぞれの登場人物が茂平次と出会うきっかけが語り進められ、次第に茂平次を取り巻く人間関係が明らかになっていくという凝った構成。農家から家出してきた三男坊、剣術よりも笛が得意な大身旗本の四男坊、柳橋の芸者、大怪我をして大阪から送り返されてきた元新撰組、大身旗本の妾だった世間知らずの叔母の世話をする女、元町方の同心、そして薩摩から東征軍としてやってきた若い兵士などなど。茂平次を中心に江戸町人達から見た明治維新の江戸の空気が感じられる物語です。

 意外にもと言うべきか、やっぱりと言うべきか分かりませんが、この小説に登場する江戸町人達の明治維新に対する態度はやはり「我々の江戸が薩長に乗っ取られてしまう!大変だ!」というものです。徳川幕府とともに260年以上かけて作り上げてきた江戸を故郷として根付いた人々は、それが戦争で失われるのではないか?薩摩や長州が壊してしまうのではないかと恐れ、だとしたら江戸っ子としては徹底的に抵抗したい、幕府軍の側を応援したいと思いながらも、社会の底辺たる町人一人の力ではどうすることも出来ず、だとするならば命あっての人生なのだから世の中がどう変わろうとも生き抜いていけばいい、自分は自分であってお上がどうなろうとも変わらないのだから、と悩み抜くそれぞれの複雑な心内が語られます。

 しかし、物語の端々には、

何が回天の志だ、何が王子につくすだ。浪士を集めて江戸市中を騒がせているだけじゃないか。<中略>第一、維新も回天もなく、ただ一所懸命に働いている人たちの命や金を奪い、犠牲にしなければ新しい世の中が作れぬのだとしたら、つくってくれなくてもよいと、誰もが言うのではあるまいか。(「朝焼けの海」より)
将軍-公方様は武家の棟梁であり、文字通りのお上であった。薩摩藩主も長州藩主も、公方様の配下でしかない。その藩主に仕える侍達が倒幕を叫ぶのは、尊王に名を借りた謀反としか思えなかった。(「嘘八百」より)

 と言った、薩長のやり方を非難する言葉が数多く並んでいます。そして、

江戸にゃ、釣りはいらねぇって科白はあるが、まけてくれろなんてえ科白はないんですよ。古着屋をからかって値引きさせたら、その分をご祝儀だと言って置いていくのが粋ってもんです。(「わが山河」より)

 と、柳橋芸者が薩摩兵に啖呵を切って見せます。なのに、だからこそ、

お江戸は公方様のお膝元じゃありませんか。そのお膝元に、薩摩やら長州やら、外様の軍勢が攻め込んでくるというのに、焼いてしまおうという人はいても、守ろうとする人はいない・・・。なんと情けないことか。(「去年の夢」より)

 と、早々に逃げ出してしまった幕府旗本、御家人達の不甲斐なさを嘆いてみたりもします。その一方で、

「煙んたなびっ桜島ん向こかぁ、陽がのぼっとごわす。朝焼けん桜島なんかは、見すっごちゃ。桜島もそうじゃっどん、山も海も川も、お城ずい、俺を抱いて育てっくれたよな気がすっなぁ。」お城は天守閣のない屋形造りで・・・と、良作は熱のこもった口調でしゃべり始めた。(「わが山河」より)

 という風に、雑然とした江戸とは違う、薩摩をはじめとした日本各地の美しい風土への郷愁を誘います。そして最後には、

江戸の人達は皆、好きな人と所帯をもてたとか江戸が焼かれずにすんだとか、そんなことで満足し。明治の世を生きる気持ちになった。(「そこそこの妻」より)

 と結論づけます。 

 浅田次郎氏の明治維新観と同じように北原亞以子さんもまた、失われてしまった江戸時代というものを愛したが故に、それを破壊してしまった薩長連合のやり方に対して批判を行っているのかもしれません。上に引用した文章はどれも登場人物の口を借りたストーリー的行きがかり上の台詞ではありますが、そこに作者の考え方が入り込んでいると考えるのが自然です。もちろん両氏とも明治維新そのものを否定しているわけではありません。しかし、浅田次郎氏が「五郎治殿御始末」で書いたように、それにしてもあまりにも失ったものが多すぎた、という意味なのではないでしょうか。

 そこまで深読みしなくとも、時代小説家として江戸の町人達の目線からこの時代を見つめればこそ、当然江戸に暮らす人々が感じたであろう明治維新への戸惑いを表現しただけに過ぎないのかも知れません。新しい時代の到来は結構なこと、でも江戸を焼いてくれるな、と、茂平次はじめ江戸の町人達が叫んでいる声が聞こえてくるようです。

 日本独自の文化が花開いた江戸時代、宵越しの金は持たないながらも、それなりに豊かだった江戸の人々の暮らし。その中に息づいた粋な人々を題材に多くの小説を描いてきた北原亞以子さんだからこそ書ける明治維新の物語です。

 最後に、あまりにも北原節がかっこいいのでもう一文引用してしまいます。本当にこの小説の中でゾッと鳥肌が立つほどガツンと来るのは、

「泣くねぇ。隅田川の水で産湯を使った女だろうが。お前がいい女だからいけねぇのよ。」

 です。結局いつの世も人間のすることはとどのつまり「男と女」ってことなのでしょう。

 おすすめ度:★★★★★

赤まんま 慶次郎縁側日記:北原亞以子

赤まんま―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

赤まんま―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

 

 前作の「脇役 慶次郎覚書」を含む)「赤まんま」が文庫で発売されました。先月末にぶらぶらと暇つぶしに本屋さんに入ってみると、今月は思わず買いたくなるような時代小説の新作が目白押し。悩みに悩んで最終的に2冊を選んだのですが、主に悩んだのは2冊目の方だけで、この本を買うことは全く躊躇いませんでした。
 ありがちな捕り物のようでいて他にはない設定、ストーリー、そして雰囲気を持つ小説です。今作も期待に違わず、読んでいて思わず体中に震えが来るほどでした。それは感動というか痺れるというか何というか、北原亞以子さんの小説でしか味わえない独特の感覚です。

 慶次郎縁側日記シリーズは短編集の形式を取っていますが、各巻毎にある一定のテーマがあります。前作「やさしい男」は「貧困」がテーマだったように思います。そして今作「赤まんま」のテーマは、ずばり「男と女の愛」です。そして今回もまた慶次郎は単なる脇役。各編のストーリーの中で主人公になるのは色々な事情を持った様々な町人達。慶次郎はその物語の中にちょっとだけ顔を出すだけ。でも彼がいなくては締まらないほどの重要な脇役です。

 第一話の「三日の桜」は夫婦喧嘩の物語。いや、本当はもうちょっと背景は複雑で、若いときに苦労に苦労をを重ね米屋を開いたはおぬいと安兵衛の夫婦。小さいながらも店は順調に回り始め生活が安定したときにやってきた倦怠期。安兵衛の浮気に気づき、当てつけのように不要な浮気に走るおぬい。お互いの浮気がさらに二人を冷え込ませていきます。しかし助け合いながら苦労をした思い出までが消えるわけではありません。どこかでやり直したいとお互いに思いながら、すれ違いますます溝が深まっていく悪循環。最後に訪れる大立ち回りで、雨降って地固まる… とは行きません。お互いに反省して抱きつくような臭い落ちではないところがさすが北原節です。

 第二話の「嘘」はある女の嘘で塗り固めた半生の物語。恵まれない生い立ちを持つおはまが何とか生き延びていくために身につけた世渡りの術としての嘘。かわいそうな弱い女を演じる彼女はいつしかその嘘に縛られて身動きがとれなくなっていきます。それは単に自業自得、嘘を嘘で塗り固めたほころび、というような単純なものではありません。嘘を認めることが彼女にとってどれほど恐怖なのか? もしもああだったら、こうだったら… と誰でもが時折考える空想は彼女にとって生きていくための拠り所でした。そしてラストが秀逸です。嘘を暴いたがために生み出される新たな嘘。もしこうだったら… というとどまるところを知らない人間の想像力。人間社会がいかに嘘と空想に溢れていることをさりげなく風刺しているようです。

 第三話の「敵」はダメ亭主を支える献身的な妻の物語。賭博に溺れる男の転落というのは時代物ではよくある話ですが、建具屋を営む民蔵が溺れたのは富籤(=宝くじ)でした。それも元はといえば借金を返すために藁にもすがる思いで手を出したのが始まり。いつの間にか富籤のために借金を繰り返すようになった民蔵。それでも必死に家庭を守り民蔵を支え続ける妻のたつ。ひょんなことから二人に関わってしまった蝮の吉次の語り口で進む物語はまるで前作のタイトルナンバー「やさしい男」と同じ雰囲気です。捻くれきった善人、誰よりも正義感が強く優しさを持ちながら、誰からも恐れられる悪徳岡っ引きで名が通る吉次。彼は民蔵とたつの夫婦の問題にどんな決着をつけるのでしょうか。吉次の物語らしい落ちに思わず笑ってしまいます。

 第四話の「夏過ぎて」は不倫をした男と女、そして取り残された家族の悲しみと憎しみの物語です。実は捕り物でありながら珍しいことに慶次郎シリーズでは滅多に死人が出ないのですが、この物語では珍しく殺人事件が発生します。それも非常に残虐でやりきれない事件です。北原節で語られる慶次郎の世界は基本的にとても粋で美しいのですが、基本ハードボイルドなだけにひとたび殺人となると徹底的に凶悪になります。この物語の主題はその殺人事件謎解きではなく、事件の背景にある人間模様です。犯人の独白を聞き思わず同情したくなりますが、同時に否定しようのない正義を突きつけられ、読者の心を大きく揺さぶります。その心の揺れ動きは本当にこんな事件に巻き込まれた当事者だったらどれほどのものなのでしょうか?

「お前のかみさんは気の毒だが自害だよ。そしてお前も手前で手前を殺した。が、おちかさんには生きるべき人生があったんだ。」

 これは慶次郎がラストでしゃべる台詞(の一部意訳)です。慶次郎シリーズを第一巻から読んでるファンには、この台詞が慶次郎の口から出たのを聞いて(読んで)ズシッと心に来るものがあるはずです。私はすっかりやられてしまいました。この本の中ではもっとも重くて心に残る一編です。

 第五話の「一つ奥」も夫婦愛の物語。でもちょっと毛色が違ってミステリー仕立てになっています。ある日の深夜、刺殺体で見つかった善七。彼の妻おさいは行方が分からず、おさいの姉妹親族、関係者がすぐに番屋に集められます。そこへ駆けつけた慶次郎の養子の晃之助。彼ら彼女らから善七とおさい夫婦のことを色々聞き出します。お互いに牽制し合いながらぽろぽろと少ししゃべり始める姉妹親族たち。誰もがおさいが犯人だと頭の隅で思いながら、その話題を避けて通る微妙な空気。親戚内にある細かいわだかまり。そして最後にようやく番屋に連れてこられた渦中の中心人物おしん。彼女の口から語られた事件の真相と、彼女の心の内とは。兄弟にも親戚にも誰もの想像の遙か上を行くおしんの告白。晃之助までもが涙する感動のラストです。まるで舞台劇の脚本を読んでるかのような一編です。

 第六話はタイトルナンバーの「赤まんま」です。将来夫婦になることを夢見ていたおみちと丈吉の物語です。幼なじみの二人は成長して大人になってから久しぶりに出会って恋に落ちる… というのはよくある流れですが、その後結局不治の病に二人は引き裂かれてしまいます… という流れもやはりありがちではあります。しかしこの物語のポイントはそこにあるのではなく、引き裂かれる直前に二人が交わした約束にありました。「赤まんまの簪が欲しい」とつぶやいたおみち。「いつか必ず買ってやる」と約束した丈吉。そして商いに成功し材木問屋の主人となり、丞右衛門と名前を変えて独身を貫き通している丈吉の手元には、値がつけられないくらい素晴らしい細工で赤まんまを象った簪があります。おみちを忘れられず愛し続けながらも、過去に縛られて身動きのとれない丞右衛門。彼の心を解き放ったのは慶次郎の一言とは…。

 第七話の「酔いどれ」もまた夫婦愛の物語。縄のれんに勤めるおつぎの亭主留三郎は仕事もせずに昼間から酒を飲み続け、時折おつぎの暴力を振るうダメ人間です。しかしどんなにひどい仕打ちを受けてもおつぎの留三郎への献身は変わりません。世間は誰もが「別れてしまえばいいのに…」と心配する中で、健気に留三郎の世話をしては折檻されるおつぎ。しかしこの二人には誰にも知られていない、知られてはいけない過去と秘密がありました。それは一体何だったのか? 留三郎の告白はとてもショッキングで悲しい物語です。

 第八話の「捨てどころ」はちょっと雰囲気が違って、男と女というよりは母と娘の物語です。半ば駆け落ちのようにして実家を捨て貧乏生活を送るおまきと、有り余る財産を持って優雅な隠居生活を送る母親のおれん。娘のおまきが感じるのは、自分が愛した人を受け入れてくれなかった母親へのわだかまり、実家を捨てたことへの後ろめたさ、そして生活が苦しくお金をもらっている後ろめたさです。母親のおれんにしてみれば、娘の愛する人を拒絶したことへの後ろめたさ、実家を捨てた娘への失望、そしてお金でしか娘とつながっていないことの心細さです。お互いにお互いを必要としながらも意地を張り合う二人。果たしてこれは「親の心子知らず」なのか「子の心親知らず」なのか? 家よりもお金よりも、何よりも大事なのは家族なのだと訴えかけてくるようです。

 北原亞以子さんの書く小説では、人間の微妙な心の機微がとても美しく上手く表現されていると思います。状況や背景などの説明的な部分は必要最小限で、物語のほとんどがその場の空気、登場人物たちの心の動きで表現されているようです。いつかも書いた気がしますが、北原さんの小説で描かれる人物はわずか40ページの短編の中にしか登場しないとしても、その人が30年なら30年の人生の積み重ねが感じられるほど非常に生々しくて厚みがあります。

 北原作品はもちろんフィクションなのですが、きっと記録に残っていない名も無き無数の人が北原さんの小説に出てくるような人生を送って江戸に暮らしていたんだろうな、と思わず思いを馳せてしまいます。その辺の想像力をかき立てる部分も私が北原節が好きな一つの理由かと思います。

 おすすめ度:★★★★★

贋作天保六花撰:北原亞以子

 江戸時代末期に人気を博した講談であり、後に歌舞伎にもなった「天保六花撰」を北原さんなりに解釈し、肉付けして書き下した小説です。タイトルにはその字面からは想像もつかない「うそばっかりえどのはなし」というふりがなが振られています。元となった講談「天保六花撰」は御数寄屋坊主でありながら強請を働いていたと言われる実在の人物、河内山宗俊を主人公とし、その他5人の悪党たちを描いた物語ですが、この”北原版”天保六花撰では宗俊の弟子であり御家人の色男、片岡直次郎が主人公となっています。

 これはどこかで読んだことのある話だな?と気づいたのは実は半分近く読み進めた後のこと。オリジナルの「天保六花撰」は知りませんので、同じく河内山宗俊らを題材にした小説は何かあったはず… とすぐに思い出したのは藤沢周平の「天保悪党伝」です。こちらも片岡直次郎が主役でした。しかし、半分読み進めないと思い出せないくらい、この同じオリジナルに基づく二つの小説は、そのディテールや構成や雰囲気が違っています。そして最後のオチも180°違うと言ってもよいかも。しかし、両者に共通するのは彼ら悪党がアンチ・ヒーローとして描かれているという点です。

 オリジナルにおいて「六花撰」というタイトルの由来にもなっている主な登場人物は6人。御数寄屋坊主の河内山宗俊、貧乏御家人で色男の片岡直次郎、剣客の金子市之丞、ちんぴらの暗闇の丑松、献残屋の顔を持つ森田屋清蔵、そして紅一点、直次郎に恋する吉原の花魁、三千歳。一見、何のつながりもないような6人は、それぞれがそれぞれの理屈を持って強請や詐欺や美人局などの悪事に手を染めていきます。そして6人揃って最後に打って出る大一番の勝負。そのクライマックスは読んでのお楽しみと言うことで、ここでは触れないことにしておきましょう。

 時代は江戸の末期、日本の経済は完全に商人が握り、徳川家を始め武家の支配階級としての権力は揺らぎ、経済力は完全に破綻していました。幕府中枢につながりを持つ河内山宗俊はともかく、無役の御家人片岡直次郎の生活などは借金漬けで日々のお米にも困るほどです。そんな歪んだ社会において、貧乏人の犠牲の上に富を築く巨悪たちから金を強請り取る彼らは、愛すべき悪人たちです。より大きな毒(悪)を制するための小さな(悪)毒と言ったところでしょうか。しかし、同じようなアンチ・ヒーローでありながら「天切り松」のような強烈で芝居がかった格好良さは感じられません。むしろ、彼らは狡賢く薄汚く嫌らしく情けない、と言った方が当たってるでしょう。でも「天保悪党伝」もそうでしたが、なぜだか憎めない悪党たち。特にこの北原さんの描く片岡直次郎が置かれた微妙な立場と彼の心の揺れ動き、どうしようもない厭世的な考え方には読者としても思わず同情してしまいます。

 さて、この”北原版”天保六花撰のキーになるのは直次郎の妻”あやの”の存在です。これは恐らくオリジナルにはなくて北原さんが独自に描き出した登場人物だと思われます。もちろん藤沢さんの「天保悪党伝」にも彼女は出てきません。”あやの”は絶世の美人ながら病弱で17歳まで家を一歩も出ず病に伏せっていたために、全くと言っていいほど世間を知らない女。その一挙手一投足、口に出す言葉ははまるで子供同然です。無邪気にも直次郎を慕い、尊敬し、頼り、愛する”あやの”は、その夫が悪党であることなど全く知らず、しかしそんな妻のために博打を打ち強請を働く直次郎。物語の中の”あやの”があまりにもあどけなくてかわいいだけに、世の中の闇に嫌と言うほど溺れている直次郎とのコントラストが際だちます。

 そして、直次郎は心の底から考えます…
 世の中の敵は金だけじゃない、女もまた敵なのだ。

 

 と。

 北原ファンとして驚いたことに、この作品は全体に渡ってコメディ調の文体が貫かれています。”あやの”の世間知らずぶりもある意味コメディですし、森田屋の薄毛、市之丞のケチさと風貌、丑松の恋とトンでも解釈な論語の受け売り、そして宗俊の長い長いこじつけな講釈… 物語のあちこちにちりばめられた滑稽な話もまた、ただ単に読者を笑わせるだけでなく、直次郎の抱える重たい問題と心の矛盾を浮き彫りにする背景の一つとなっています。

 しかし結末… にきて急にいつもの北原節が炸裂。不意を突かれてジワッと涙がこみ上げてきてしまいました。うーん、ずるいです。上手いです。先にも書いたとおり、落ちの付け方は藤沢周平版の天保六花撰とは大きく違っていました。私はこの北原版の方が好きです。

 おすすめ度:★★★★★