ほたる

投稿者: | 2011年3月27日

ほたる―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

ほたる―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

川面に消えたほたるの光は、移ろう人の心の幻か。幼い異母妹と懸命に生きた貸本屋の男が、愛する妻の借金に戸惑う(「みんな偽物」)。悪い男に強請られる女が泣きついたのは、蝮の異名をもつ曰く付きの岡っ引き吉次だった(「ほたる」)。浮気、妻への暴力、ささやかな幸せにつけ込む債鬼の罠―江戸の市井で泣く人々を、心に鬼を飼う仏の隠居、慶次郎が情けで救う傑作シリーズ第十弾。

 北原亞以子さんの人気シリーズ、慶次郎縁側日記の第十巻です。前作からずいぶん間が空いたなぁと感じるのですが、調べてみると第九巻「夢の中」が文庫で発売されたのは2009年の秋。およそ1年半ぶりの新刊発行です。

 この慶次郎縁側日記は、人物設定が非常に絶妙で人の心の機微が、リアルにも美しく表現された、素晴らしい小説です。特に最近の作がそうなのですが、同心や岡っ引きが出てくる捕り物帖でありながら、事件らしい事件が起きず、起きたとしても犯人捜しの謎解きや、正義のヒーローが悪を懲らしめる活躍を楽しむ小説ではなくなっています。

 例えば第五話の「付け火」。ここでは確かに付け火という、重大な犯罪が起こっています。しかし、ストーリーの中心は「良い人」とは何か? 良い人の心の奥底に潜む暗闇をあぶり出しつつも、じんわりと感動する人情物語となっています。最後の落ちも大岡裁きというのでしょうか。法治とか善悪、社会的責任とはかけ離れた、江戸時代の人々の粋と知恵が感じられる、読後感の良い物語です。

 そして表題作となっている第八話の「ほたる」。この作品に出てくるのは善良な同心や岡っ引きばかりではありません。強請を得意とする岡っ引き、蝮の吉次も健在です(ちなみに強請をしていた岡っ引きは少なくなかったそうです)。しかしその彼もアンチヒーローとして登場し、必ずしも世の中はきれい事ばかりでないことを、きっちりと浮かび上がらせる役割を持ち、このシリーズにピリッとした緊張感とリアリティを持たせています。

 それよりも今回引き込まれたのは、「ほたる」の舞台です。それはまさに私が今暮らすこの町が描かれているのです。隅田川の向こう、江戸の中心地とはかけ離れ、深川の繁華街とも少し違う、当時の開拓地。十万坪の荒れ地、一橋家の下屋敷、海辺町、横十間川、猿江に小名木川を渡る扇橋と新高橋などなど。今でも現存する地名やランドマークの名前が次々に出てきます。

 夜中に明かりが灯っていれば、それだけで蝮の吉次を寄せ付けるほど、周囲には何もなかった時代。蛍の明かりの中に浮かぶ人間の存在の明かしたる灯り。少し歩けば門前仲町の岡場所がある一帯ですが、いまではその情景は想像もつきません。そんなのどかな風情の中にも、人の営みは存在し、事件は起きていました。

 蝮の吉次が”ほたる”に紛れた灯りのもとで、何を見つけたのでしょうか? 一つ一つの言葉と文書の美しさに本当に惚れ惚れする、素晴らしい小説です。他にこんな時代小説はなかなかないと思います。

 【お気に入り度:★★★★☆】