東洲しゃらくさし

投稿者: | 2012年1月29日

東州しゃらくさし (幻冬舎時代小説文庫)

東州しゃらくさし (幻冬舎時代小説文庫)

江戸へ下ると決めた上方の人気戯作者・並木五兵衛。一足先に行って様子を報せてほしい–。頼まれた彦三は、蔦屋重三郎の元に身を寄せる。彦三に自らを描かせた蔦屋は、顔の癖を容赦なくとらえた絵に息を呑む。彦三の絵を大きく仕掛ける肚を決めた蔦屋。一方、彦三からろくな報せのないまま江戸へ向かった五兵衛には、思わぬ挫折が待っていた–。

 先月に本屋さんで見つけた松井今朝子さんの文庫新刊です。となれば、中身もろくに確認せずに即買いしてしまうわけですが、今作は表紙をひと目見ただけで何のお話しなのか分かってしまいました。そうです、この表紙絵にこの題名とくれば、これはもう江戸時代中期の浮世絵師、東洲斎写楽の物語に決まっています。

 写楽の浮世絵は誰でも一度は見たことがあるのではないでしょうか。この本の表紙絵の左側にも使われている、二代目中村仲蔵が演じる江戸兵衛の大首絵などは特に有名です。私自身は記憶にないのですがもしかしたら写楽は教科書にも載っていたのかも。そのせいか、むしろ何となくこれこそが浮世絵の典型的代表作のように思いがちですが、写楽の描いた人物画は特徴が強烈にデフォルメがされており、当時からしておよそ役者絵の標準からはかけ離れていた異端の絵だったそうです。

 で、その写楽。この人の描いた役者絵や相撲絵が、当時の江戸随一の版元である蔦屋から発売されたのは、寛政六年から翌年にかけてのわずか10ヶ月あまりのこと。そして写楽という絵師がいったい何者だったのか?ついては全く分かっていません。それは単に記録が失われたのではなく、何か曰くがあって正体を隠していた謎の絵師として、歴史のロマンを感じさせるものがあります。

 もちろん研究の結果、代表的な仮説というのはあるようですが、松井今朝子さんはそれらとは全く違う独自の視点から、この謎の絵師の素性についての仮設を組み立てたのがこの物語です。そう、引用した紹介文にもあるとおり「彼は大坂人だった」というのが松井今朝子説なのです。

 ちなみに面白いことに、この小説の中では「東洲斎写楽」という雅号は一切出てきません。「それは言わなくても分かるよね」という意味なのか、あるいは「これはフィクションです」と遠回しに言っているのか。それとも正体不明の人物のミステリアスさを醸し出すための演出なのでしょうか?

 いずれにしても、さすがに研究者並みに当時の芸能の世界に詳しい松井今朝子さんならではの、深い考察に基づいて書かれた、江戸時代の芸能の世界観は読んでいて圧倒されます。芝居の仕組み、役者達の姿、版元や絵師との関わり、そして江戸と大坂の大衆文化の違い。他の時代小説では全く描かれることのない、江戸時代の重要な文化がの一つの側面がそこには描かれていると思います。

 最後に巻末の解説を読んで驚いたことに、この作品は新作ではなくて、松井今朝子さんの処女作だそうです。松井今朝子さんと言えば、直木賞を取った「吉原手引草」や「家、家にあらず」などもとても有名ですが、この二作はむしろ松井作品としては特殊な題材の小説ではないかと思えてきます。松井作品の王道は「仲蔵狂乱」などの歌舞伎ものにあるのだと。そんな松井今朝子さんが、小説家として一番最初に取り上げた題材が「写楽」だったというのは、納得できるようもあり、やっぱり意外でもあり。

 【お気に入り度:★★★★☆】