そろそろ旅に

投稿者: | 2011年5月13日

そろそろ旅に (講談社文庫)

そろそろ旅に (講談社文庫)

『東海道中膝栗毛』で一世を風靡するのはまだ先のこと。若き日の十返舎一九、与七郎は平穏な暮らしに満たされず、憑かれたように旅を繰り返す。駿府から大坂、そして江戸へ。稀代のユーモア作家が心に抱いた暗闇とは何だったのか。意外な結末が深い感動を呼ぶ、直木賞作家渾身の長編小説。

 ”十返舎一九”と聞いて、その名前は知っているものの、何をした人だったけ?と、恥ずかしながらすぐには思い出せませんでした。上の紹介文にもあるとおり、この人は江戸中期の戯作者で、弥次喜多珍道中としてよく知られている、紀行小説「東海道中膝栗毛」を書いた人物。この一連の膝栗毛シリーズの中で、主人公の弥次郎兵衛と喜多八は、江戸を出発して東海道を西に向けて上りつつ、最後は大阪に至ります。現代ほど一般庶民が自由に旅をすることができなかった時代、彼は想像だけでこの二人の珍道中を描いたわけではありません。彼自身が東海道を行き来した「旅人」だったのです。

 松井今朝子さんと言えば、女性の生き様だったり、歌舞伎の世界えお描いた小説、というイメージがありますが、今回はそのどちらでもありません。しかし江戸時代の民間芸能を題材にしているという点では、歌舞伎と似たテーマであると言えるのかも。そして、大坂の街の様子を描くあたりなどは松井さんの得意分野かもしれません。

 江戸時代随一の大ベストセラーを書いた十返舎一九はどのような経歴で、どのようにして戯作者の道を究めていったのか? 史料に残る事実をベースに、彼の人となりや細かい出来事の一つ一つを、松井今朝子さん流の世界観と物語力で肉付し、一つの人生を描き上げた大河ドラマです。そこには蔦重こと蔦屋重三郎(江戸時代最も成功した版元。現在のTSUTAYAはこの蔦重にあやかった)や浮世絵師にして戯作者でもあった山東京伝、「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴、謎の浮世絵師、東洲斎写楽など、どこかで聞いたことはあるけど、詳しくは知らない歴史上の人物、特に芸術家がたくさん出てきます。

 物語は、幼なじみであり家来でもある太吉とともに、実家を飛び出して初めて旅に出るところから始まります。そして十返舎一九として成功するまでが語られる… のは確かなのですが、そのエピローグはとても意外な形で迎えます。この小説はただ単に十返舎一九という人の、苦労を重ねながら人生の目標に向かって突き進む、単なる成功物語ではありません。もっと深く重い人間の内面の闇を描いたもの。生活に行き詰まると「そろそろ旅に出よう」と誘う太吉と彼の間にあるのは、信頼なのか友情なのか愛情なのか?

 読み進めるうちに、少しずつその謎が解けていきます。というより、これってもしかして…?と読者に少しずつ疑念を抱かせる構成はさすが。しかし謎を解いたと思っても、最後にはその想像を遙かに上回るエンディングが待っています。このプロットは松井さんのフィクションであって、それを十返舎一九に当てはめたのではないかと想像します。誰でも良かったのではなく、これは十返舎一九が主人公でなければ成立しないストーリーなのでしょう。さすらいの旅人、根っからの風来坊、波瀾万丈で最後に成功を勝ち得た枠にはまらない芸術家。その後ろには常に影のように太吉がつきまとっていたに違いありません。

 【お気に入り度:★★★★☆】