赤穂浪士の故郷は兵どもが夢の跡だった:赤穂から明石へ城跡を巡る

投稿者: | 2016年9月3日

 広島城&福山城編からの続きです。贅沢な焼肉を食べた翌日は土曜日。この日も昼間は何も予定がなくフリーなので電車に乗って城跡を巡ることにします。兵庫県は百名城に指定された城趾が全国で最も多い県なのですが、中でも姫路城と並んで有名なのが竹田城です。

 恐らく一日仕事になると思って7時過ぎに神戸を出発したのですが、途中乗換駅の姫路まで来てからようやく電車の時刻を調べてみると、なんと姫路で1時間以上の待ち時間が発生するとの結果に。そこで慌てて帰りのことも含めて電車の時間を調べて、いろいろ見積もりしていくと、現地での滞在時間がほとんど取れないことが分かりました。

 ということで、計画のずさんさが露呈したところで竹田城はすっぱり諦めて、バックアッププランへ切り替えることにしました。

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 姫路からはさらに電車で西へ向い、目指す目的地は播州赤穂です。赤穂と言えば赤穂浪士。遠く離れた江戸で事を成しとげた四十七士と浅野家の故郷を見に行くことにしました。

大石神社

 はるか京都の先、滋賀方面からやってくる新快速の終着駅が兵庫県の西端、播州赤穂です。駅を降りるとそこからすでに忠臣蔵一色でした。駅構内にある観光案内所でマップをもらって、いざ赤穂探索開始です。

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 駅の南口を出てまっすぐ1kmほど歩くと赤穂城址の大手門にぶつかります。堀があって隅櫓が出迎えてくれました。しかし地図を見ると、ここから先がまだまだ長いようです。

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 いかにも城跡らしいクランク状の枡形をいくつか通り抜けると、道沿いに古びた長屋門が現れます。小さな説明書きを読んで驚愕! これ、なんと浅野家家老の大石家屋敷の長屋門です。しかも復元ではなく現存というではないですか! すごいですね、これ。いきなり興奮してしまいました。

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 元禄14年(1701年)3月19日、江戸城松の廊下で起きた刃傷沙汰と、それによって赤穂藩の殿様である浅野内匠頭長矩が切腹した事を知らせる早駕篭が、真っ先に目指して叩いたのがこの門です。そうでなくても家老であった大石内蔵助、主税親子もこの門を出入りしていたのでしょう。しみじみと見入ってしまいました。

 大石家長屋門の向かい側には近藤源八宅跡長屋門があり、こちらは内部を見学する事ができます。赤穂城址で現存している貴重な建物はこの二つだけだそうです。

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 その他の大石家屋敷跡地は今では大石神社となっています。参道にはこうして四十七志の石造がずらっと並んでいました。

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 祀られているのはもちろん大石内蔵助良雄。昼行灯と呼ばれていたとか、討ち入り前には京都で豪遊していたとか、いろいろな逸話がある人ですが、実際はどんな人だったのでしょう?

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 境内は「大願成就」の文字で溢れています。そもそも自分の「大願」とは何なのか?が分からぬまま、お参りしておきました。

赤穂城

 大石神社からさらに奥に進み、何もない二の丸跡を抜けると、いよいよ赤穂城の本丸跡が見えてきます。

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 内堀と本丸門です。これらはすべて石垣からして復元品だそうです。確かにひとつひとつの石のエッジがかなり立っていて、とても300年以上経過してるようには見えません。

 それでも石垣は赤穂産の石材を使っているとか。なぜならば、それが国が復元費用の補助を出す条件だったから。オリジナルの赤穂城の石垣が赤穂産の石が使われていたのでしょうか?

 ここでちょっと脱線。前日に訪れた広島城と福山城をはじめ、全国で多くの城が戦争により失われています。しかしそれ以上に多くの城が失われたのが明治時代。廃城令により役目を終えた城の多くが、日本人自らの手で取り壊されました。

 江戸時代泰平の260年の間に城は砦としての役目から行政庁舎へと機能を変えており、さらに政治体制が大きく変わった明治以降、新たな役所を構築するに当たって、古い城を壊し、新たな役所を造る… というのは自然の流れだったのかもしれません。

 しかし赤穂城の場合、城跡は役場になったわけではなく民間に払い下げられてしまいました。そのため本丸周辺は堀も門も石垣も土塁も壊されて、なんと高校が建っていたそうです。その後城趾は国の史跡に指定され、学校は移転し、こうして復元工事が行われてきたそうです。

 今となってはなんとも馬鹿な事をしたものだと思いますが、そういった経緯も何もかも含めての城の歴史なのだと思います。それでも… 何とかならなかったのかとは思いますが。

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 さて閑話休題。本丸の土塁に上がり鉄砲用の狭間からの西方向を眺めると、二の丸跡と三の丸跡が良く見えます。これらの土塁も復元されたものでしょうか? 二の丸跡は庭園となり、三の丸跡は駐車場等になっています。

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 本丸跡ではボランティアガイドさんに声をかけていただいて、いろいろ説明してもらう事ができました。ただ見て回るよりはずっと理解が深まります。

 ここは本丸内の庭園跡。これも当然一度は壊されてなくなったものを再現したもの。ちょうど殿様たちの居室があった位置から撮りました。浅野内匠頭長矩もこんな景色を眺めたのでしょうか。

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 ガイドさんののお勧めポイントが厩口門。門を出た脇の石垣が曲線を描いています。戦国時代から江戸時代にかけての城郭を構成する石垣としては非常に珍しいものだそうです。

 そういえば同じような曲面を描いた石垣は甲府城でも見ましたし、やはりガイドさんの一押しポイントになっていましたっけ。

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 この赤穂城は山鹿素行の甲州流軍学を学んだ近藤三郎左衛門が設計したそうで、その特徴が随所に見られるが、その一番顕著なものがこの門だそうです。こんな小さな門なのに無理矢理枡形を構成し、その両脇に塀を造って狭間を設ける… と。その狭間がついた塀はおよそ実用性があるとは思えない状態です。

 実効性は疑わしいものの、理論に忠実に造ったらこうなった、という奇妙な造りの門であり、ガイドさんもなかなか辛口で「机上の空論で作られた城」と説明していました。

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 城となれば天守ですよね。赤穂城にも天守台が残っています。この石垣は明治時代にも壊されることはなく、学校の校庭に長らく鎮座していたとか。

 ただし、この天守台には実際に天守閣が建てられたことはないそうです。財政難で建設を延期しているうちに、時代はすでに戦国の世ではなくなっていたからだとか。江戸初期に築城された城にはこうした未完成の天守跡は多いようです。

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 天守台以外にも本丸北東部には、石垣は積まれたけど櫓も壁も作られなかった遺構がいくつか残っています。草と森に埋もれて「遺跡」感が漂っていました。

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 天守台は登ることができるので、もちろん上ってみました。階段がかなりワイルドでちょっとびっくり。ここに5層の天守が立っていたらさぞかし眺めは良かったことでしょう。本丸跡はこのようにコンクリートで屋敷の間取りが再現されています。

 赤穂城は明治から昭和にかけて、無残にも破壊され尽くしたわりに、現在の姿はかえって「城跡」感が強く残っているから不思議です。浅野家の時代ははるか300年以上前のことであり、松の廊下事件も吉良邸討ち入りも、ここで起きたわけではないのに、彼らがそこまでして守ろうとした故郷と家がここにあったのだなぁ、と思うと何ともロマンを感じます。

花岳寺

 さて、赤穂城址から駅に戻る間にあって、是非立ち寄ってみたかったのがこの花岳寺。ここは赤穂城の主だった浅野家の菩提寺です。

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 それほど敷地は広くはありませんが立派な本堂が立っています。このお寺には浅野家や赤穂浪士達ゆかりの品々を展示した宝物館や、彼らのお墓があります。

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 忠義塚と名付けられた石像の裏手にある小さな墓所には、浅野内匠頭長矩、大石親子をはじめ赤穂浪士たちのお墓がありました。彼らが切腹したのは江戸であり、そのお墓と言えば泉岳寺にあるわけですが、ここは故郷の浅野家菩提寺と言うこともあって、赤穂浪士没後37回忌を契機として、遺髪をここへ運び、改めて埋葬して墓所が作られたそうです。

 越後に生まれ赤穂とは地縁のない堀部安兵衛のお墓ももちろんここにありました。浅野家や大石家、その他赤穂浪士たちにまつわる直筆の手紙等々、貴重な遺品が展示された宝物館は非常に素晴らしく、赤穂を訪れたなら是非一見の価値ありと思います。

 なお、浅野内匠頭と大石内蔵助は、備中松山城とも関係があったらしく、それに関連した書類もいくつか展示されていました。彼らはあの山城にも何度か足を運んで登ったのでしょうか。スタンプのこともあるし、備中松山城ももう一度行かなくてはと思っています。

姫路城

 さて、赤穂を後にして姫路方面へ戻ります。姫路でちょっと途中下車してみました。

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 というのは、姫路城へちょっと寄ってみたかったから。しかし姫路城を見に来るのはこれで3年連続4回目です。もうしばらくは良いかな、と思っていました。

 が、それでも今回やってきたのは百名城スタンプを押すため。なので今回は中までは入らず、門前でスタンプだけ押して下から眺めるだけで引き上げました。

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 曇り空が残念ですが、姫路城は何度見ても格好良いです。

 現存する姫路城は黒田氏の後に姫路に入った池田輝政が築城したもので、豊臣秀頼の正室だった千姫が秀頼の死後に嫁いできた城でもあります。また池田氏の後は本多忠政が城主となりました。現在の大河ドラマで名脇役として存在感を出している「舅どの」こと本多忠勝の嫡男です。この時代は本当に色んな人と色んな土地とが繋がっていて、追っていくと面白いですね。

 さて、姫路城については今回はこのくらいにしておいて、代わりに昨年と一昨年の見学記を貼っておきます。

明石城

 さて、まだ時間は午後3時。ですが相変わらず酷暑だし、かなり歩き回って疲れたので、神戸に帰るか… と思って京都方面に向かう新快速に乗ったのですが、明石に着いたら姫路とは打って変わって超快晴! ということで、実は翌日にしようと思っていた明石城を今日のうちに攻めてしまうことに急遽変更し、電車を飛び降りました。

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 明石城も福山城と同じく駅前がすぐに城址公園になっています。堀を渡って枡形のクランクを抜けると、こんな状態になっていました。どうやらこの週末はこの公園でお祭りが開かれているようです。

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 お祭りが開かれている広場は三の丸跡でしょうか、正面の高台には高い石垣が積まれた上に櫓が二つ建っています。右が巽櫓で左が坤櫓。これらは現存する建物で、その間を結ぶ塀は復元です。さて、私のお目当てはお祭りではなく城ですので、上に登ってみましょう。

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 二つの櫓の間辺りには塀の上から明石の街並みを見通せるように展望台が作ってありました。景観を壊さないように上手いこと作られた展望台です。そこから巽櫓の方を見ると、遠くには明石海峡大橋が見通せます。これは素晴らしい景色!

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 二つの櫓は月替わりで内部が公開されています。この日は坤櫓のほうに入ることが出来ました。

 このように普段からこうしていろいろな出土品や資料の倉庫になってるようで、色々なものが雑然と置かれています。しかし柱や階段、梁など、修復されている跡も多々ありますが、年月の経過を感じる風格もまた同時にあって、現存する建物ならではの重みがあります。

 さらに福山城と同じくこの明石城も江戸時代に入ってから建てられた城であり、やはり伏見城の資材が多く使われているそうです。というか伏見城はこの時代に廃城になってるんですね。それであちこちで材木が再利用されているようです。

 なお明石城は1995年1月の阪神淡路大震災で被災していますが、その後復旧が行われ現在の姿になっています。熊本城もきっと元通りになることを願っています。

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 明石城は2代将軍徳川秀忠の時代に、松本から加増栄転により転封してきた小笠原忠真によって元和6年(1620年)に築城された新しい城です。赤穂城と同様に天守台の石垣は積まれましたが、ついに天守が建つことはなかったそうです。本丸から見た天守台はあまり高くはありませんが、面積はそこそこ大きそうです。

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 戦国の世が終わった後は、天守などは無用の長物だったのでしょう。江戸城からして振袖火事で焼けた後は、天守が再建されることはなかったほどですから。

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 高く積まれた石垣は非常に見応えがありますが、草や木で覆われて自然に帰りつつあるように見えます。

 ちなみに明石城も明治の廃城令に伴って、取り壊された城です。跡地はすぐに現在のような公園に整備されたようですが、木材などは学校の建築資材などになったとか。二つの櫓が残ったのはたまたまだったのでしょうか。

スタンプ3つゲット!

 ということで、二日目の城巡りは終了。この日は3城を制覇することができました。姫路城をすっ飛ばしたとは言え、かなりがんばりました。

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 スタンプはこの通り。赤穂、姫路、明石は58〜60番に綺麗に並んでいました。登城日は後から書き入れておきます。

 今回の旅行で予定していた城巡りこれで終了。2日間で5個。累計ではようやく6個です。もう少しペースを上げないと、全部制覇するには20年くらいかかってしまいそうですね。まぁ、ボチボチやっていきたいと思います。とりあえず関東を巡らなくては!

 なお焼肉の日を祝う旅はまだもう少し続きます。