作家の北原亞以子さんが亡くなったそうです。今日の昼間、何気なくネットのニュースを見ていてこの訃報に触れ、自分でも意外なくらいに大きなショックを受けてしまいました。本屋さんで「北原亞以子」と書かれた新刊(文庫ですが)を見つけると、中身も確かめず名前買いしてしまう作家さんの一人。
「慶次郎縁側日記」シリーズ、「深川澪通り木戸番小屋」シリーズはじめ、たくさんの素晴らしい作品がありますが、一冊選ぶとしたら絶対にこれ、というのがあります。だいぶ前(2008年12月)に古いブログに書いた感想文なのですが、ここに再掲しておきたいと思います。
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浅田次郎氏の書いた明治維新もの小説「五郎治殿御始末」と「お腹召しませ」を先日紹介しましたが、これらの小説の登場人物は全て武士でした。それも徳川幕府側に属していた武士達の視点で語られる明治維新を題材としたものです。この二冊に収められた短編小説はどれもとても感動的で、あらためて明治維新というか江戸時代の最期というものに興味を持ちました。そして武士の視線ではなく江戸市民の視線から見た明治維新を扱った小説はないのかな?と思って探してみたところ、この本が見つかりました。しかもなんと私の大好きな「慶次郎縁側日記」や「深川澪通り木戸番小屋」シリーズで有名な北原亞以子さんの作品です。これが面白くないわけがありません。
時代はまさに明治維新のまっただ中。薩長の官軍が江戸に入る直前から始まり、上野の彰義隊の戦い、そして新政府が樹立され元号が慶応から明治へと変わり、江戸が東京と言う名に改められるまで。ところは神田の下駄新道。そこの長屋に暮らすごく普通の貧乏な町人達の物語です。主人公はタイトルにもなっている茂平次。小柄で色白で、少々太り気味、下がった眉と二重まぶたの目に愛嬌があり、着たきりの川越唐桟の着物さえ取り替えれば、大店の道楽息子にも見えなく無いという男です。
そんな愛嬌のある茂平次につけられた「まんがら」という渾名の由来については本を読んでもらうとして、彼の得意技はなんと「嘘をつくこと」なのです。いや、得意技と言うよりも体に染みついて自然と口をついて出てくるもので、嘘をつきながらまるで本当にそうだったかのような気になってしまうと言う、正真正銘根っからの本物の嘘つきです。でも茂平次のつく嘘は罪が無くて愛嬌のある嘘ばかり。騙されたと分かっても何故か憎めず、誰も傷つけることなく(いや、もちろん金や物を手に入れるためにも使われるのですが)、時にはむしろその場の諍いを丸く収めてしまうほどの威力を持っています。いうなれば茂平次は究極の「空気が読めるやつ」と言えそうです。
物語はそんな茂平次が幕末の暮らしにくい江戸の町で見る明治維新の嵐と、同じように維新に翻弄される人々との関わり合いを中心に進んでいきます。短編集の形式をとりつつ、それぞれの物語において、それぞれの登場人物が茂平次と出会うきっかけが語り進められ、次第に茂平次を取り巻く人間関係が明らかになっていくという凝った構成。農家から家出してきた三男坊、剣術よりも笛が得意な大身旗本の四男坊、柳橋の芸者、大怪我をして大阪から送り返されてきた元新撰組、大身旗本の妾だった世間知らずの叔母の世話をする女、元町方の同心、そして薩摩から東征軍としてやってきた若い兵士などなど。茂平次を中心に江戸町人達から見た明治維新の江戸の空気が感じられる物語です。
意外にもと言うべきか、やっぱりと言うべきか分かりませんが、この小説に登場する江戸町人達の明治維新に対する態度はやはり「我々の江戸が薩長に乗っ取られてしまう!大変だ!」というものです。徳川幕府とともに260年以上かけて作り上げてきた江戸を故郷として根付いた人々は、それが戦争で失われるのではないか?薩摩や長州が壊してしまうのではないかと恐れ、だとしたら江戸っ子としては徹底的に抵抗したい、幕府軍の側を応援したいと思いながらも、社会の底辺たる町人一人の力ではどうすることも出来ず、だとするならば命あっての人生なのだから世の中がどう変わろうとも生き抜いていけばいい、自分は自分であってお上がどうなろうとも変わらないのだから、と悩み抜くそれぞれの複雑な心内が語られます。
しかし、物語の端々には、
何が回天の志だ、何が王子につくすだ。浪士を集めて江戸市中を騒がせているだけじゃないか。<中略>第一、維新も回天もなく、ただ一所懸命に働いている人たちの命や金を奪い、犠牲にしなければ新しい世の中が作れぬのだとしたら、つくってくれなくてもよいと、誰もが言うのではあるまいか。(「朝焼けの海」より)
将軍-公方様は武家の棟梁であり、文字通りのお上であった。薩摩藩主も長州藩主も、公方様の配下でしかない。その藩主に仕える侍達が倒幕を叫ぶのは、尊王に名を借りた謀反としか思えなかった。(「嘘八百」より)
と言った、薩長のやり方を非難する言葉が数多く並んでいます。そして、
江戸にゃ、釣りはいらねぇって科白はあるが、まけてくれろなんてえ科白はないんですよ。古着屋をからかって値引きさせたら、その分をご祝儀だと言って置いていくのが粋ってもんです。(「わが山河」より)
と、柳橋芸者が薩摩兵に啖呵を切って見せます。なのに、だからこそ、
お江戸は公方様のお膝元じゃありませんか。そのお膝元に、薩摩やら長州やら、外様の軍勢が攻め込んでくるというのに、焼いてしまおうという人はいても、守ろうとする人はいない・・・。なんと情けないことか。(「去年の夢」より)
と、早々に逃げ出してしまった幕府要職の重鎮たちや旗本、御家人達の不甲斐なさを嘆いてみたりもします。その一方で、
「煙んたなびっ桜島ん向こかぁ、陽がのぼっとごわす。朝焼けん桜島なんかは、見すっごちゃ。桜島もそうじゃっどん、山も海も川も、お城ずい、俺を抱いて育てっくれたよな気がすっなぁ。」お城は天守閣のない屋形造りで・・・と、良作は熱のこもった口調でしゃべり始めた。(「わが山河」より)
という風に、雑然とした江戸とは違う、薩摩をはじめとした日本各地の美しい風土への郷愁を誘います。そして最後には、
江戸の人達は皆、好きな人と所帯をもてたとか江戸が焼かれずにすんだとか、そんなことで満足し、明治の世を生きる気持ちになった。(「そこそこの妻」より)
と結論づけます。
浅田次郎氏の明治維新観と同じように北原亞以子さんもまた、失われてしまった江戸時代というものを愛したが故に、それを破壊してしまった薩長連合のやり方に対して批判を行っているのかもしれません。上に引用した文章はどれも登場人物の口を借りたストーリー的行きがかり上の台詞ではありますが、そこに作者の考え方が入り込んでいると考えるのが自然です。もちろん両氏とも明治維新そのものを否定しているわけではありません。しかし、浅田次郎氏が「五郎治殿御始末」で書いたように、それにしてもあまりにも失ったものが多すぎた、という意味なのではないでしょうか。
そこまで深読みしなくとも、時代小説家として江戸の町人達の目線からこの時代を見つめればこそ、当然江戸に暮らす人々が感じたであろう明治維新への戸惑いを表現しただけに過ぎないのかも知れません。新しい時代の到来は結構なこと、でもこの江戸を焼いて壊してくれるな、と、茂平次はじめ江戸の町人達が叫んでいる声が聞こえてくるようです。
日本独自の文化が花開いた江戸時代、宵越しの金は持たないながらも、それなりに豊かだった江戸の人々の暮らし。その中に息づいた粋な人々を題材に多くの小説を描いてきた北原亞以子さんだからこそ書ける明治維新の物語です。
最後に、あまりにも北原節がかっこいいのでもう一文引用してしまいます。本当にこの小説の中でゾッと鳥肌が立つほどガツンと来るのは、
「泣くねぇ。隅田川の水で産湯を使った女だろうが。お前がいい女だからいけねぇのよ。」
です。結局いつの世も人間のすることはとどのつまり「男と女」ってことなのでしょう。
おすすめ度:★★★★★
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最後にもう一冊、北原作品でどうしても忘れられないのが「父の戦地」です。ヨシエチャンはやっとお父さんに会えたことでしょう。