富子すきすき

投稿者: | 2012年5月8日

富子すきすき (講談社文庫)

富子すきすき (講談社文庫)

夫の吉良上野介が内匠頭に斬りつけられた日から歯車は少しずつ狂っていった。赤穂浪士の討ち入りで上野介を喪った富子。あの事件で得をした者など誰もいない。建前や武士としての体裁なんて関係ない。世間が何と言おうと、私にとってはたった一人の優しい夫だったのに。妻から見た「松の廊下事件」とは(表題作)。武士の妻、町娘、花魁、辰巳芸者…凛として背筋の伸びた、江戸を生きる6人の女性たち。

 この表題の語感、(よく見ると違うけれど)何となくかわいらしいデザインのカバー絵、そして作者が宇江佐真理さんと来れば、女性らしい視点の柔らかくてほんわかする市井もの時代小説を想像しますが、これが忠臣蔵ものだと言うのだから本屋で手にとって驚いてしまいました。そうでなくても買う気満々でしたが、忠臣蔵に宇江佐真理と好きなものが二つも重なったのだから、俄然期待も高まります。

 最近分かりやすいストーリーの時代小説ばかり読んでいたせいか、久々にこの手のしっかりした文章を読んで改めて新鮮な感動というか驚きを感じました。そう、やっぱり時代小説はこうじゃなくては!と。でも宇江佐真理さんってこんなにキレのいいハードボイルドな文体だったっけ?とやや意外な感じもします。

 もしやこれも再版ものかと思ったりもしましたが、2009年に単行本が発行され文庫化されたばかりのわりと新しい作品でした。六話からなる短編集なのですが、中でもやはり忠臣蔵を扱った表題作の「富子すきすき」が異色で、他の五編はすべて宇江佐さんらしい市井ものでした。

 さて、富子とは誰かと言えば、忠臣蔵ではすっかり悪者とされている吉良上野介の奥さんです。吉良富子は米沢藩上杉家に生まれ、吉良家に嫁いできました。上野介との間に生まれた長男を上杉家に養子に出し、その子は上杉家4代藩主綱憲となります。さらにその子、つまり富子にとっての実の孫を逆に吉良家の養子としてもらい受け、上野介の跡取りとするなど、武家の世界で一家を支える主婦として順調な人生を送っていたはずでした。

 それが松の廊下事件とそれに続く赤穂浪士による吉良家討ち入りによって、彼女の人生は大きく狂い、完膚なきまでに破壊されてしまいます。ある意味、忠臣蔵事件による一番の被害者、最も多くのものを失った人間と言えるのかも知れません。つまり、夫である上野介を失い、吉良家を失い、実家の上杉家を巻き込み、実子である綱憲は病に倒れ、吉良家の主となるはずの孫は高遠に流配されてしまいます。失意のうちに晩年を迎えた彼女は何を思いつつこの世を去ったのでしょうか?

 この小説は宇江佐真理さんが空想で作り上げた吉良富子の晩年の物語です。夫の思い出、息子と孫の行く末を心配し、赤穂浪士に味方する世間に苛立ち、失意のうちにこの世を去って行く吉良富子。そんな悲しい人生とからは想像付かない「富子すきすき」という言葉はいったい何なのか? 宇江佐節全開の一編で、女性らしく母の目線で書かれた文章は読み応えあります。

 しかも、他の五編もどれも素晴らしいお話しです。書きすぎない、作りすぎない、必ずしもめでたしめでたしな予定調和の落ちを迎えない絶妙なバランス。久々に「質」のいい時代小説を読んで大満足です。

 【お気に入り度:★★★★★】