1年前の写真日記

投稿者: | 2012年3月11日

 今日で東日本大震災から一年が経ちました。この悪夢のような災害については人それぞれ色々と思うところがあると思います。今日は特に1周年という区切りの日なので、テレビでは特集番組が組まれているし、ネットにもそれに関する話題が溢れています。私もせっかくブログを書いているので、何か気の利いたことでも書きたかったのですが、色々と思うことがありすぎてうまくまとめることが出来ません。



 だったらいっそのこと、今日一日はブログもツイッターでも黙っていようと思っていました。もちろん、黙ってたり他の話をしているからと言って、何も考えていないわけではないし、逆に何かを書いたからと言って、それが考えていることのすべてというわけでもありません。要は人それぞれです。

 そんな気持ちでツイッターのタイムラインを眺めていたら、昨年の3月11日に撮影したという写真が貼られているのをいくつか見かけました。それらは地震や津波の被害を写したものではなく、どれも何でもない日常風景の範囲を出ないものばかりです。幸い大きな被害は受けることもなく、あの日はここにいてこれを撮った… と言うだけの記録です。それを見ていてふと思い立ち、自分のiPhoneの中を見てみたら何枚か昨年の3月11日に撮った写真が出てきました。

 それらは本当に何でもない写真ですが、私にとっては3月11日の記憶そのものです。私自身が被災したわけではありませんし、ましてや楽しかった思い出ではありませんし、誰かに役立つ写真でもないし、「忘れないために」とか「復興を願って」とか格好良いこと言うつもりもありません(そう思ってないという意味ではなく)。ただ、被災した多くの人のことを思う気持ち、復興についてあれこれ思うことなども、私にとっては自分が見た3月11日から考えはじめるしかないのだと思います。

 ということで、主に自分の精神安定のために、2011年3月11日に撮った写真を眺めつつ、まとめておこうと思いたちました。写真は全部で10枚です。同じものを何度か撮り直したりしたものを除けば、この10枚こそがこの日撮ったすべてです。基本的にはこれらのほとんどは当日のツイッター経由でアップロードしたものばかり。そのログにすべて載っていますが、改めてまとめておきます。

IMG_0947

 この写真のタイムスタンプを見ると15:07となっています。まだ津波はどこにも到達してない時刻で、テレビの報道も混乱していました。
 地震が発生したとき私は品川の高層ビルの17階にいました。免震構造のビルで立っていられないほどの妙な揺れ方をし、倒れそうな高価な機材を押さえつつ、床の上をいろんなものが転がっていく様を眺めていました。こういう大きなビルは倒壊することはないと信じていたので、揺れてる最中でも身の危険は感じませんでした。

 揺れはなかなか収まらずビルはミシミシと音を立てながらずっと揺れ続けていました。窓の外を見るとお台場方面で煙が上がっているのが見えました。また同時に阪神淡路大震災のことを何となく思い出し、窓の下に見える首都高速1号線や東京モノレールの高架は大丈夫だろうかと思って見たのを覚えています。

 無事報告の意味もあってこの写真をツイッターにアップロードしました。当初はこの火災だけでも大事件かと思っていたのに、その後は同じ方向に市原のガスタンクの大炎上が見え、さらにテレビからはこんな火事など忘れさせるような悲惨な映像ばかり目にすることになります。

 そしてなぜか午後のこの時間帯は空は厚い雲がモクモクと沸いていて何となく薄暗かったです。

IMG_0953

 そして永代橋へ。この写真ではよく分かりませんが、墨田川は見たことないような速さで流れ、いくつもの大きくて激しい渦を巻いており、橋脚には波しぶきが立っていました。この時初めて東京湾にも津波が来たことを実感。
 誰も予想しなかった大災害が発生している中で、どこにどれだけの津波が来るのかこの時点で分かっていた人はいないはずです。被災地でもここまでは津波が来ないと思い込んで亡くなった方も多くいると聞きます。同じように、東京には津波が来るわけない、と私は頭から信じ込んでいました。もちろん、結果的に東京には津波の被害はほとんどありませんでした(千葉県では東京湾側でも一部被害が出ています)。でも、あの時点でどうしてそんな確信が持てたでしょうか? 結果如何に関わらずあの判断は間違っていたのだと思っています。この隅田川の光景を見て少し恐怖を感じたのを覚えています。

IMG_0956

 ちなみに現在の永代橋は大正15年に建設されました。関東大震災で焼け落ちた橋に代わって架けられたものです。当時考えられた最新の防災対策がされた橋で、その後戦火もくぐり抜けたものですが、いかんせん86年も経過しています。次に東京に大きな地震が来たときは大丈夫でしょうか。
 橋の上は東に向かう人達で混んでいました。ヘルメットを被っている人もたくさんいました。車道にも車は溢れておりピクリとも動いていません。もしかしたらこの先で道路が通行できないほどの何かが起きているのかも?と思えるほどの渋滞でした。大都市での地震災害時に起こるであろうと予想されていた道路の機能不全問題が実際に起きていたことになります。もう少し揺れが強ければ、都心の幹線道路はすべて車両通行止めになったはずです。結果的にこの日は徒歩での移動が一番速かったと思われます。

 この後、私の家から自転車を貸すと約束をした友人と門前仲町で待ち合わせました。彼もほぼ同じようなルートを通って天王洲から歩いてきたそうですが、地震後テレビなどは見ていないので東北で起きていることを知らなかったようです。私が「多分、津波で何千人単位で死者が出てると思う」と言うとひどく驚いていました。この時点ではまだ、それほど情報伝達の度合いと認識は各人でバラバラだったのです。もちろん、私だって正確な情報を知っていたと言うわけではありません。結果的に亡くなった方は千人単位では済まなかったのですから。繰り返しになりますが、あの時点では誰も何も正確に起きていることを理解できていなかったということだと思います。

IMG_0957

 そして自宅にたどり着きました。友人に自転車を貸してその姿を見届けて家の中へ。いろんなものが落下してめちゃくちゃになっていました。でも建物は問題なく電気もガスも生きています。ただし、残念ながら我が家は断水していました。周辺水道管などのインフラの問題ではなく、私が住む建物の貯水タンクが壊れたことが原因。応急処置で水は翌日夕方に復旧しましたが、結局夏前に水回りを大工事をして最終的に復旧しました。

 この後は、深夜まテレビに釘付けになっていたことを覚えています。余震は続いており「いったい何が起きているのか?」を知らなくてはならなかったから。そして地域の防災無線が「電力が不足しているので節電するように」と広域放送をはじめました。
 そして翌日になると… 津波の被害が次第に明らかになるとともに、原発事故が深刻度を増していきます。自分のまわりは今のところ何ともないけど、これまでのような普通の生活は失われてしまったかも… と覚悟したことを良く覚えています。1年後にどうなってるかなんて予測がつきませんでした。

 以上が私の2011年3月11日です。