江戸城を明け渡した最後の武士:黒書院の六兵衛/浅田次郎

黒書院の六兵衛 (上)

黒書院の六兵衛 (上)

黒書院の六兵衛 (下)

黒書院の六兵衛 (下)

二百六十年の政にまもられてきた世がなしくずしに変わる時。開城前夜の江戸城に官軍の先遣隊長として送り込まれた尾張徳川家の徒組頭が見たのは、宿直部屋に居座る御書院番士だった。司令塔の西郷隆盛は、腕ずく力ずくで引きずり出してはならぬという。外は上野の彰義隊と官軍、欧米列強の軍勢が睨み合い、一触即発の危機。悶着など起こそうものなら、江戸は戦になる。この謎の旗本、いったい何者なのか―。

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鳥肌の立つ格好良さ:天切り松 闇がたり 第五巻 ライムライト/浅田次郎

天切り松 闇がたり 5 ライムライト

天切り松 闇がたり 5 ライムライト

時は昭和七年。チャールズ・チャップリンの来日を控え、華やぐ東京の街。その裏で、血気に逸る軍人たちの陰謀がひそかに進行していた。五・一五事件の前日に来日した大スター、チャップリンの知られざる暗殺計画とは――。粋と仁義を体現する伝説の夜盗たちが、昭和の帝都を駆け抜ける。目細の安吉一家が挑んだ、一世一代の大勝負とは? 人気シリーズ、最新刊。表題作「ライムライト」ほか5編を収録。

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参勤交代の行列は行軍なり:一路 / 浅田次郎

一路(上) (中公文庫)

一路(上) (中公文庫)

一路(下) (中公文庫)

一路(下) (中公文庫)

失火により父が不慮の死を遂げたため、江戸から西美濃・田名部郡に帰参した小野寺一路。齢十九にして初めて訪れた故郷では、小野寺家代々の御役目・参勤道中御供頭を仰せつかる。失火は大罪にして、家督相続は仮の沙汰。差配に不手際があれば、ただちに家名断絶と追い詰められる一路だったが、家伝の「行軍録」を唯一の頼りに、いざ江戸見参の道中へ! 雪の和田峠越え、御殿様の急な病、行列のなかで進む御家乗っ取りの企み。着到遅れの危機せまるなか、一行は江戸まで歩みきることができるのか。江戸までの中山道で繰り広げられる悲喜こもごも。

http://www.amazon.co.jp/一路(上)-中公文庫-浅田%E3%80%80次郎/dp/4122061008/

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不浄役人の意地と粋の華:赤猫異聞/浅田次郎

赤猫異聞 (新潮文庫)

赤猫異聞 (新潮文庫)

時は、明治元年暮。火の手の迫る伝馬町牢屋敷から解き放ちとなった訳ありの重罪人たち―博奕打ちの信州無宿繁松、旗本の倅岩瀬七之丞、夜鷹の元締め白魚のお仙。牢屋同心の「三人のうち一人でも戻らなければ戻った者も死罪、三人とも戻れば全員が無罪」との言葉を胸に、自由の身となった三人の向う先には…。幕末から明治へ、激動の時代をいかに生きるかを描いた、傑作時代長編。

http://www.amazon.co.jp/dp/4101019274/

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大正まで生き残った新撰組の死神:一刀斎夢録/浅田次郎

一刀斎夢録 上 (文春文庫)

一刀斎夢録 上 (文春文庫)

一刀斎夢録 下 (文春文庫)

一刀斎夢録 下 (文春文庫)

「飲むほどに酔うほどに、かつて奪った命の記憶が甦る」―最強と謳われ怖れられた、新選組三番隊長斎藤一。明治を隔て大正の世まで生き延びた“一刀斎”が近衛師団の若き中尉に夜ごと語る、過ぎにし幕末の動乱、新選組の辿った運命、そして剣の奥義。慟哭の結末に向け香りたつ生死の哲学が深い感動を呼ぶ、新選組三部作完結篇。

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月下の恋人

月下の恋人 (光文社文庫)

月下の恋人 (光文社文庫)

恋人に別れを告げるために訪れた海辺の宿で起こった奇跡を描いた表題作「月下の恋人」。ぼろアパートの隣の部屋に住む、間抜けだけど生真面目でちょっと憎めない駄目ヤクザの物語「風蕭蕭」。夏休みに友人と入ったお化け屋敷のアルバイトで経験した怪奇譚「適当なアルバイト」…。珠玉の十一篇を収録。

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月島慕情:浅田次郎

月島慕情 (文春文庫)

月島慕情 (文春文庫)

 

 

 久しぶりの浅田次郎の短編集です。この本は時代物ではないのですが、タイトル作品となっている「月島慕情」が大正の吉原を舞台にしていると言うことで、何となく心惹かれて買ってみました。読んでみれば各物語の時代設定はばらばらで、大正だけでなく明治から昭和、平成の現代ものまで含まれています。しかし、そこは浅田次郎氏の筆の力によるものなのか、あまり各話の時代の違いというものは気になりません。どれをとっても浅田ワールドです。もちろんすべて号泣ものです。

 第一話の「月島慕情」は大正時代の花魁が見た先々の人生の夢、第二話の「供物」はある女性が過去へと遡る旅、第三話の「雪鰻」はとある自衛隊の師団長の忘れえぬ過去の記憶、第四話の「インセクト」は学生運動が活発な時代に東京に出てきた学生の焦燥、第五話の「冬の星座」は96歳で大往生を遂げたある老女の心意気、第六話の「めぐりあい」は山深い温泉街のマッサージ師とあるひとりの客との一期一会、第七話の「シューシャインボーイ」は大成功を遂げた男の人生の目的…。どれも素晴らしく心温まる物語ばかりです。

 面白いことに巻末には浅田次郎氏自身が語る、これらの一つ一つへの作品の解説が付いていること。そういえば以前に読んだ「お腹召しませ」も作者による解説付きでした。スティーヴン・キングのように上手い解説は、作品の勘所を説明するような野暮にはならず、これらの一つ一つの物語の印象を強くします。興味深いことに、浅田次郎氏は短編を構成するに当たり、ちゃんと各物語のつながりや抑揚というものを考えている、みたいなことが書かれていました。音楽のアルバムと一緒で、同じような曲ばかりにならないように、少しスパイスを混ぜたりするものなんだな、と何だか納得してしまいました。

 で、全編にわたって泣けるわけですが、この中で私が一番強く印象に残ったのは、第三話の「雪鰻」です。変なタイトルですが、中身はいたってシリアスな物語。太平洋戦争を題材にしているという時点で、そりゃ泣けるに決まってるだろう、という気もするのですが、そんなに単純なものではありません。戦争という極限状態に置かれた人々を傷ついたヒーロー的に扱ってはいるようにも一見思えるものの、やっぱりはりこれは浅田次郎氏らしい「格好良い人間の心意気」の物語です。それは決して命を捨てることの潔さを称えるきれい事ではないし、ましてや軍人や軍隊を賛美するものでもなく、逆にただひたすら戦争の残酷さを書き連ねているだけでもありません。

 ところで「雪鰻」とは何なのか?それは読んでのお楽しみと言うことで。でも、それについてこの物語のとある登場人物は以下のように語っています。

あれは実にうまかった。どのくらいうまかったかというと、ひとことで言うなら、日本そのものだった。我が国の二千年の文化は、鰻の蒲焼きに凝縮されているといってもいい。しかも俺は、その二千年間に焼き続けられた無数の鰻のうちの、多分最高傑作にちがいない蒲焼きを食ってしまった。

 そんな鰻があるなら食べてみたい… と思うかどうかは、この物語を読む前と読んだあとでは、考えが変わるはずです。

 この本は全編にわたって泣けると書きましたが、中でもクライマックスはやはり最終話の最後にやってきます。最終話の「シューシャインボーイ」は現代の物語。登場人物とその周辺の事情は、浅田次郎氏の現代物らしく、何となく成り上がりの胡散臭さが漂う人物が主人公。何となく予想が付くような展開。しかし最後は… 理屈抜きです。泣けます。絶対に号泣です。

 お勧め度:★★★★★ (感動して心温まりつつ泣ける、贅沢な小説。これは誰にでもお勧めです。)

あやし うらめし あな かなし:浅田次郎

 浅田ワールドを怪談で表現するとどうなるのか? その答えがこの本です。小説や物語は突き詰めるとファンタジーになり、中でも”怪談”は太古の昔から存在した究極の物語であると、解説されています。過去にもファンタジー小説を書いた実績のある浅田次郎氏ですが、私にはどうにもしっくり来ませんでした。でも、あの緻密で徹底的に読者の心を誘導する浅田次郎氏の筆によって怖い物語を書かせたら… それはそれは恐ろしい小説ができあがることでしょう。

 この本には計七編の怪談が収められていますが、中でも特徴的なのは第一話「赤い絆」と第七話「お狐様の話」です。これは浅田次郎さんが実際に子供の頃に叔母さんから聞いた話をベースにしています。浅田氏の母方の実家は奥多摩御岳山の山頂にある神社の神官を代々務めていたそうです。お参りする信者達のための宿坊を営んでおり、夏になるとそこに一族の子供達が集まり夏休みを過ごしたそうです。山頂の神社、宿坊の古い建物、たくさんの部屋、そこで寝物語として叔母さんが語る怖い話…。これ以上ないくらいの怪談の舞台が整っています。キャーキャー騒ぐ子供達はいつしか眠りに吸い込まれていきますが、浅田少年だけは物語の最後までじっと暗闇で叔母さんの声に耳を澄まして聞いていました。

 奥多摩の御岳山と言えば千年以上の歴史を持つ霊山です。日本武尊がこの山で道に迷い、白と黒の犬神が表れて先導したという神話の地。それ以来御岳山山頂には神社が開基され、日本武尊を祀るとともにお犬様信仰が根付きました。そんな由緒正しい神社の神官をしていた一族には、たくさんの不思議な話が伝わっていることでしょう。しかし、この物語で語られるのは叔母さんが子供の頃に体験したという、比較的最近(大正か昭和初期)の話です。「この目で見た」と言う以上に説得力のある怖い話はありません。「赤い絆」はなんだか正体が分からない幽霊が出てくるのではなく、人間が引き起こすおぞましくも怖い話。「お狐様の話」は霊山の神官が本領を発揮し、邪悪な”もののけ“と対決するファンタジー要素の強い怪談です。

 この二話に挟まれた五つの物語を軽く紹介しておくと、第二話「虫篝」はバブル崩壊で財産を失い文字通りの夜逃げをした男に訪れる人生の総決算、第三話「骨の来歴」は身分の異なる男女の愛の結末、第四話「昔の男」は老舗個人病院を支える看護師の生涯をかけた決心、第五話「客人」は金持ちの男と行きずりの水商売の女の駆け引き、第六話「遠別離」は多くの(還らぬ)兵隊を送り出した六本木歩兵聯隊のある兵隊と彼を待つ妻の物語です。

 私の勝手な感想かも知れませんが、どれもまるでスティーヴン・キングが書きそうな物語だな、と思いました。そういう意味で「怪談」というよりは「ホラー」という雰囲気。いや、むしろスティーヴン・キングのような外国作家が書く「現代物の怪談」を「ホラー」と呼んでいるだけと言うべきか。何となくそんなことを考えてしまいました。

 さて、この七編の中で特に面白かった物語がどれかと言えば、やはり「怪談」としてストーリーと落ちが楽しめたという点で、御岳霊山ものである第一話の「赤い絆」と第七話の「お狐様の話」かなと思います。夏の夜に暗くて広い部屋で大勢の子供達が叔母さんの語る怖い話を聞く、という設定だけでも引き込まれます。そうやって怪談を聞いた記憶が誰にでも一つや二つあるのではないでしょうか?そういう意味では、これらは怖さを助長すると言うよりも、何となくノスタルジーを感じさせます。また、子供と怪談というのはとても相性が良いですね。子供は純真だからこの世の者ではないものを感じやすい、と言う意味でもあり、子供はそもそもとても恐ろしいことをしでかす生き物だ、という意味でもあり。どちらに取るかは人それぞれかもしれません。

 しかし、グサッと心に突き刺さるような強烈な印象を残したのは、第四話の「昔の男」と第六話の「遠別離」です。両方に共通しているのは「戦争」です。これを怪談と言ってしまって良いのかどうかは分かりません。むしろ、怖いというよりも、とても悲しい物語です。その悲しさが凝縮したような、とても強く印象に残った一文を、「遠別離」の中から引用しておきます。

兵士たちの多くは、救いようがないのです。殺そうとする力に対して、生かそうとする力は余りにつたなかった。ほとんど無力と言えるほどに。それが戦争というものです。
 だが僕は、蟷螂の斧と承知しても努力を怠りはしなかった。
 戦で傷つき死んでゆく兵士には、忠節も愛国もないのです。みながみな、おのれの命を奪う文明を呪って死んでゆく。考えてもごらんなさい。本来なら人を生かす文明の利器によって人が死んでゆくという理不尽など、あってはならぬことではないですか。
 だから僕は、文明を担う科学者の意地において、人を生かすものこそが文明なのだと、彼らにわからせてやりたかった。たとえつたない努力でも、一門の大砲に向き合う一本の注射器が、蟷螂の斧に如かぬとしても。

 

 この物語を読んでいてこの一文にたどり着いたときには、なんだかわからないけれども大変ショックを受けました。私は医療の世界については患者として時々診てもらう以上のことは何も知りませんが、ここにはただのありふれた医療の目的や理想、人助けの精神などとは違う、何かもっと深いものが表現されているように思います。特に最後の一段落に出てくる「人を生かすものこそが文明なのだ」という言葉と「科学者の意地としてそれを(人々に)わからせてやりたい」と言う言葉には、(浅田次郎氏の考える)医師をはじめとした科学者全体の使命が訴えられているように思います。いずれにせよ、忘れがたい一節です。

 この物語を読んでいて、そういえば浅田次郎氏は確か医師の資格を持っていなかったっけ?と思ったのですが、彼の経歴を調べるとそれは勘違いであることが分かりました。そうではなく、彼は自衛隊に勤務したことがあり、その後は裏社会に片足を突っ込むなど、波瀾万丈で作家としては異色のキャリアを持っているようです。思い出してみれば、彼の作品はどれもその経験を大いに生かしているようです。「天切り松闇語り」もそうではないでしょうか。中でもこの怪談短編集は、自分の子供の頃の経験、士族の末裔としての立場、自衛官として(敢えてそう書くのですが)軍隊に関わった経験とそれに基づく戦争観、裏社会にいた時代の経験などなどが詰め込まれているようです。しかし、上に引用したような強烈な説得力を持った一文が、彼のどこから出てきたのかは分かりません。

 そしてもう一文。「遠別離」より。

 私、幸せだったわ。たぶん誰よりも。だって、あなたの声は六十年もずっと聴こえていたんだもの。こんな幸せな女が、ほかにいるもんですか。私は一等幸せだからね、だからみんなにかわって、あなたにお礼を言わなくちゃいけない。ごくろうさまでした。あなた。

 

 もう、号泣です。またまた完膚無きまでにやられてしまいました。降参です。

 戦争を美化するものでもなく、ましてや正当化するものでもなく、自虐史観などという下らない言葉とも無関係です。これらは、古くさくて繰り返し語られてすり切れたようなお涙ちょうだいの戦争の物語ではありません。特に明治時代の日本を敬愛する浅田次郎氏の戦争観であり近代日本史観の一つの表れであると思います。

 なんだか、怪談らしからぬ感想になってしまいました。それはやっぱりこの本も浅田ワールド全開なためかと思います。そういう意味では、個人的にはこの本のタイトルはどうなのかな?と思います。

 おすすめ度:★★★★★

お腹召しませ:浅田次郎

お腹召しませ (中公文庫)

お腹召しませ (中公文庫)

 

 「五郎治殿御始末」に続く浅田次郎氏の幕末もの短編集を読みました。こちらの本は「五郎治殿御始末」に収められた物語とは少し違っていて、明治維新の大変革に翻弄されてしまった武士というよりは、変化していく世の中をもう少し遠くから眺めている感じがします。武士としての自分の社会的立場というよりは、もっとそれぞれの主人公達の私生活というか、心の内側の物語というか何というか。そのせいか、前作ほど”号泣度”は高くありません。浅田次郎作品として読むとその辺が少し物足りないかも知れません。

 ただ、この本に収められた物語の語り口で特徴的なのは、作者たる浅田次郎氏の言葉でそれぞれ前書き、後書きに相当する一節が付け加えられていることです。そこには各物語を書くきっかけとなったエピソードが語られています。前作のタイトルナンバー「五郎治殿御始末」もそうでしたが、これらの物語は浅田次郎氏の幼少期と祖父から伝え聞いた明治維新の頃の伝説がベースとなっているようです。そして時々思うのですが、時代小説と言ってもそう遠くない昔の人間の、しかも日本人の物語ですので、時代背景を変えれば現代物小説としても成り立つものが少なくありません。浅田氏はその逆の発想で、現代に起きている様々なちょっとした出来事(=ドラマ)を時代小説、とりわけ幕末に置き換えてみたりしています。

 第一話はいきなりタイトルナンバーとなる「お腹召しませ」です。タイトルがストレートに伝えてくるようにとある武士が切腹に追い込まれていく物語です。しかしそこには何故か「命を賭けた忠義」みたいな、ありがちな武士の美談のような悲壮感がありません。幕末という時代を迎え武士が形骸化しきった世の中で、それでも「お腹召しませ」と言われてしまう一家の主のドタバタ物語です。コメディ的でさえあります。前作の感想分で引用した文章のように現代人の考える「サムライ」像というのはかなりの部分誤解されていると言うのが浅野氏の持論です。この物語はある意味その誤解を解くべく彼の考える本物の武士像を表した物語です。

 第二話は「大手三之御門御与力様失踪事件之顛末」という長いタイトルの物語。状況説明はほとんどこのタイトルでされてしまっています。失踪事件であるからにはこれはミステリー小説でもあります。なので粗筋の説明は極力やめておきましょう。浅田氏による解説によると、これは携帯電話やメールに束縛された現代人の息苦しい生活からの脱出願望を書き表した物語だそうです。説明の中では「不在の自由」という言葉が使われています。ともすれば休日でも仕事のメールを読むことを当然とされてしまう社会…。確かに不健全です。が、実は携帯電話のない江戸末期でも武士達にとっては状況は同じでした。

 第三話の「安芸守様御難事」は、江戸時代の徳川幕府政権下において、前田(加賀)、島津(薩摩)、伊達(仙台)に続く大藩であった広島藩は浅野本家の十四代当主、浅野長勲の物語。時代はもちろんもうすぐ明治維新を迎えようという幕末。水野忠邦が幕府老中として政治の実権を握っていた時代です。本家主流の血縁を持たず大名家当主となるべき英才教育を受けてこなかった歳若い殿様の気苦労。自分の発する一言の過不足によって家来の命が左右されかねないことにいちいち気を遣い、主としての威厳を保つために一挙手一投足に神経をとがらす殿様。訳も分からぬまま「斜籠」という大名家秘密の儀式を行うこととなった浅野家の殿様の苦労を、現代の雇われサラリーマン社長の姿に重ねた物語です。

 第四話の「女敵討」は、これもタイトルが表すとおりの物語です。ぶっちゃけて言えばいわゆる不倫の話。こういう男女間の色恋沙汰は現代にも負けず劣らず大昔からあるわけで特別なことではありませんが、それが武家の中で起こると少しややこしい事情が生まれます。この物語は不義を働いた妻とその相手を成敗し武士としての面目を保つ… という単純なものではありません。妻の不倫を機に「なぜ?なぜ?」と思いを巡らす男とその妻と、その周辺を囲む人々の心の内の物語です。現代からは「貞」という文字の意味するところが失われてしまったのではないか?と考えた浅田氏の空想から生まれたものだそうです。

 第五話は「江戸残念考」は浅田氏お得意の”薩摩の芋侍”に占領された幕末の江戸に取り残された御家人達の物語です。明治維新に当たって彼らに残された道は、駿府へ落ちた徳川家について江戸を出て行くか、薩摩・長州の新政府に寝返るか、脱走し上野の山に籠城して命を落とすか、武士としての過去を捨てて町民として生きていくか、のどれかでした。いずれにしても彼らにとっては「残念」なことばかり。何をするにも「残念無念」しか口に出てこない彼らの陰鬱とした生活。なお、この物語の主人公の名は「浅田次郎左右衛門」です。浅田氏が自分の先祖を思って書いた物語だと言うことはこの主人公への命名からして明らかです。その思いは物語を締めくくる次の言葉に集約されているようです。

 

二百六十年もの甲羅を経て、今や恃む主とてなく、この身は既に武士か御家人かもわからぬが、少なくとも江戸っ子に違いはないと、次郎左右衛門は得心した。

 

 第六話の「御鷹狩」は読んでいてどんよりと心が重くなる苦しい物語でした。御鷹狩とはもちろん将軍家を始め諸大名の当主だけに許された狩りであり、軍事訓練の側面もありましたが、それよりはむしろスポーツというか遊び的な意味合いが大きかったようです。で、もちろん明治維新を経て御鷹狩りという風習は急激に衰退しました。しかし、この物語はそんな大名達の御鷹狩りそのものに関係した内容ではありません。この物語は御家人の家に生まれ、子供から大人へと成長しつつある思春期に明治維新という社会の大変革を迎えた少年達の物語です。当然そうなると思っていた自分たちの将来が突然崩れ去り、将来が見えない不安にさいなまれる少年達。ただでさえ難しい年頃の中で自分自身では処置しきれない難題を抱えてしまった苦悩は計り知れないものがあります。

 これら六編の物語の最後にこの本全体に対する作者による後書きとして「跋記」という短い文章が付け足されています。それによると時代小説というのは歴史と文章の両立が非常に難しいと書かれています。史実を忠実になぞると小説的なおもしろさが失われ、小説的な表現を優先すると時代考証に反すると。これは時代小説(あるいはドラマ、映画)にとっての永遠のジレンマだと思われます。そこをいかに上手くまとめるか。浅田氏自身、この短編集の中でいくつか小説的表現を優先して史実に反する部分があることを具体的な例を挙げて告白しています。

 読み手としては細かいことを知らずとも、そういうことは織り込んで時代小説を読まなくてはなりません。しかし、史実との整合性はともかく、そこに描かれている江戸時代あるいはそれ以前の時代の「空気感」というものにリアリティがなくてはならないと私は個人的に思います。もちろん、江戸時代というのは厳しい封建社会で、抑圧され飢えに苦しむ人々も多く、民主的でもなく平等もなく前近代的な世の中でした。でも一般に思われているほど、暗く抑圧された貧しい世界ではなかったと思います。むしろ江戸に限って言えば非常に自由で緩く華やかで豊かな町だったと思えてきます。

 浅田氏始め、私の好きな作家さんの書く時代小説は、全てそんなリアリティのある空気感を持っています。いかに細かいディテールで事実に反する演出が為されていようと、物語全体が伝える空気は恐らく本物だろうと思います。その雰囲気を感じることが私が時代小説を好きになった大きな理由の一つだと思っています。

 ところで、この本の解説は珍しいことに経済学者であり政治家でもあった竹中平蔵氏が書いています。が、あまり面白くありません(^^; この本に収められた物語やその背景についての解説ではなく、浅田次郎氏考に徹しているからかもしれません。それは本人が書く以上に面白みも説得力もあるわけがありません。

 おすすめ度:★★★★★

五郎治殿御始末:浅田次郎

五郎治殿御始末 (新潮文庫)

五郎治殿御始末 (新潮文庫)

 

 この本は明治維新を経験した幕末の武士達の物語六編が収められた短編小説集です。浅田次郎氏の小説と言えば「泣ける」に尽きるわけですが、それも明確な起承転結のストーリー性を持っていて、クライマックスに向けて過剰なまでの演出を施し、言ってみれば非常にベタな手法で読者を泣かせようとしているように思えます。しかしそれがあまりにも分かりやすくベタであるからこそ、ツボに入ったときには涙腺に直接訴えかけてくるものがあります。じわじわ来るのではなく、ワッと来る号泣クラス。電車の中で読んでいると大変困ったことになります。

 私個人的にはこの浅田氏の泣かせる小説は現代物ではなんだかしっくり来ないものがあるのですが、時代物ではもう見事なくらいまんまと填ってしまいます。ちなみにこれまで私が読んだ浅田氏の時代小説は全てが幕末ものでした。いや、幕末ものと言うよりは明治維新そのもの。「憑神」は維新を江戸で迎えるとある御家人の家を題材にしています。そしてこれらがどうしようもなく泣けるのです。コメディ&ファンタジーな「憑神」でさえ最後は号泣です。

 果たして、期待に違わずこの短編集も全編に渡って泣けました。そしてやはり明治維新を過ごす武士達を題材にしています。ただしこの短編集に収められた物語で特徴的なのは、主に明治維新「後」が語られていること。徳川幕府の時代はそれぞれ大名家に仕え、社会の支配階級として存在していた武士達は、いかにしてその立場を失い、明治の初期を生き抜いていったのでしょうか? 泣ける以前にこれらの物語を読んでいると、ご一新と呼ばれた明治維新ではいかに激烈に社会の仕組みが一変したかが分かります。昨日までの自分の地位立場は全て無くなり、無職から出直す武家の人々。社会の仕組み的には恐らく今から60年以上前の戦争よりも遙かに大きな転換だったと思います。

 明治維新では外国の圧力を受けたものの、国内政治的には外国の干渉を受けることなく大きな革命を行いました。それに際して大きな戦乱を経ることなく日本人の知恵と秩序を持って粛々と行われたと昔々に学校で教わったような印象があります。確かに時の権力者である徳川家は激しい抵抗することなく江戸城無血開城しましたが、これら浅田氏の幕末小説を読んでいると、やはり明治維新とは戊辰戦争を持って完結した「内戦」だったことに気づかされます。戦争であったからにはそこには勝者と敗者が生まれました。この短編集に出てくるのはその中の敗者達の物語です。いや、それを言うと浅田氏の描く幕末小説は全てそうだと言えるでしょう。それは彼が描く幕末は全て滅ぼされる武士達の側から見ているからに他なりません。

 第一話「椿寺まで」は維新後の明治初期に日本橋西河岸町で反物屋を営む江戸屋小兵衛の過去への旅の物語。第二話「箱舘証文」は新生日本政府の工部少輔になった大河内厚と、警視庁警部となった渡辺一郎の再会の物語。第三話「西を向く侍」は幕府天文方にて暦の作成を行っていた科学者、成瀬勘十郎の最後の抵抗の物語。第四話「遠い砲音」は時間に振り回される陸軍中尉、土江彦蔵の持つ真の忠義の物語。第五話「柘榴坂の仇討」は井伊直弼の近習として桜田門外の変にあった志村金吾が世間より六年遅れて迎えるご一新の物語、そして第六話がタイトルナンバーとなる「五郎治殿御始末」です。会津藩とともに徳川幕府側として最後まで戦った勢州桑名藩に残ったある一人の武士の物語です。

 これらは全て明治維新の敗者の寂しく悲しい物語なのですが、そこには倒幕なのか佐幕なのか、攘夷なのか開国なのか?徳川なのか薩摩長州連合なのか?といった政治的な点に主眼はおかれず、ひたすら「サムライとは何だったのか?」が語られているように思います。それは彼の小説に繰り返し出てくる「江戸を占領し破壊し尽くした薩摩と長州の田舎侍」への辛辣な言葉からも読み取れます。
 そして江戸時代の市井もの小説を読みあさり、曲がりなりにも江戸の風習と雰囲気をわずかに残す東京の下町で育った身として、浅田氏を真似て「江戸をこんな大都会にしてしまった野暮な薩摩の芋侍め!」とこっそり悪態をついてみたくなるのです。(鹿児島県山口県出身の方々、ごめんなさい。他意はまったくありません)

 そんな浅田次郎氏の幕末小説を読んでみて何となく感じてきたことが、思いがけずこの本の第六話「五郎治殿御始末」のラストにて明確に浅田氏の言葉で語られていました。ちょっと長いですが引用しておきます。この本である意味一番感じ入ったのはこの部分でした。

 武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものに対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。
 武士は死ぬことと見つけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだが、余りに単純かつ象徴的すぎて、後生に多くの誤解をもたらした。
    <<中略>>  人類が共存する社会の構成において、この思想は決して欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点であろう。
 社会科学の進歩とともに、人類もまたたゆみない進化を遂げると考えるのは、大いなる誤解である。たとえば時代とともに衰弱する芸術のありようは、明確にその事実を証明する。近代日本の悲劇は、近代日本人の奢りそのものであった。 (浅田次郎作 五郎治殿御始末より引用)

 

 これが浅田氏の明治維新論であり、彼が書く多くの幕末小説で訴えかけているのは、まさにここに引用した文章に集約されているのではないかと思いました。これを理解すると、この号泣を誘う臭いほどの物語の数々が、より説得力を持って感じられます。それは薩摩とか徳川のどちらに正義があったとかいうことでなく、ましてや政治的な立場の問題でもなく、単純に日本の文化と歴史の話だと私は理解しています。

 「天切り松シリーズ」を読んだときに「明治維新がリアリティを持って感じられる不思議さを感じた」とその感想文に書きました。同じことはこの本からも感じられますし、浅田氏の言葉で直接的にそう書かれてさえいます。ともすると、現代の日本とは60年前の敗戦で生まれ変わったように感じがちですが、それ以前の昭和初期、大正そして明治時代はずっと連続しているのです。そして同じように明治維新とその前の江戸幕府時代もずっと切れ目なく続いており、それらは実はびっくりするくらい最近のことで、私たちの生活にもその影響は色濃く残っているわけです。

 例えば… もうすぐ11月の初旬に”暦の上で”冬がやってきます。12月には”大雪”、1月には”小寒“、そして2月には早くも”立春“です。「暦の上」って一体何なのでしょうか?いえ、もちろん”暦”とは旧暦を指していることは誰もが知っています。しかしどうして暦と実際の季節感はずれてしまったのか? 七夕含め多くの日本の風習は暦とともに本来の季節からずれてしまったままです。実態を知ると「暦の上では」という言葉がいかにも空しく響きます。この本の第三話の中で成瀬勘十郎が心配したとおり、旧暦とともに多くの文化、風俗が失われてしまったのでしょうか?

 読んでいると何となく落ちが分かってくるのに、その少し上を越えていく浅田ワールド。何度も泣きながらそんなことを考えてしまう本でした。さて、実はこの本と対になる幕末短編集がもう一冊あります。もちろんそちらも入手済み。読むのが楽しみです。

 おすすめ度:★★★★★★