五郎治殿御始末:浅田次郎

五郎治殿御始末 (新潮文庫)

五郎治殿御始末 (新潮文庫)

 

 この本は明治維新を経験した幕末の武士達の物語六編が収められた短編小説集です。浅田次郎氏の小説と言えば「泣ける」に尽きるわけですが、それも明確な起承転結のストーリー性を持っていて、クライマックスに向けて過剰なまでの演出を施し、言ってみれば非常にベタな手法で読者を泣かせようとしているように思えます。しかしそれがあまりにも分かりやすくベタであるからこそ、ツボに入ったときには涙腺に直接訴えかけてくるものがあります。じわじわ来るのではなく、ワッと来る号泣クラス。電車の中で読んでいると大変困ったことになります。

 私個人的にはこの浅田氏の泣かせる小説は現代物ではなんだかしっくり来ないものがあるのですが、時代物ではもう見事なくらいまんまと填ってしまいます。ちなみにこれまで私が読んだ浅田氏の時代小説は全てが幕末ものでした。いや、幕末ものと言うよりは明治維新そのもの。「憑神」は維新を江戸で迎えるとある御家人の家を題材にしています。そしてこれらがどうしようもなく泣けるのです。コメディ&ファンタジーな「憑神」でさえ最後は号泣です。

 果たして、期待に違わずこの短編集も全編に渡って泣けました。そしてやはり明治維新を過ごす武士達を題材にしています。ただしこの短編集に収められた物語で特徴的なのは、主に明治維新「後」が語られていること。徳川幕府の時代はそれぞれ大名家に仕え、社会の支配階級として存在していた武士達は、いかにしてその立場を失い、明治の初期を生き抜いていったのでしょうか? 泣ける以前にこれらの物語を読んでいると、ご一新と呼ばれた明治維新ではいかに激烈に社会の仕組みが一変したかが分かります。昨日までの自分の地位立場は全て無くなり、無職から出直す武家の人々。社会の仕組み的には恐らく今から60年以上前の戦争よりも遙かに大きな転換だったと思います。

 明治維新では外国の圧力を受けたものの、国内政治的には外国の干渉を受けることなく大きな革命を行いました。それに際して大きな戦乱を経ることなく日本人の知恵と秩序を持って粛々と行われたと昔々に学校で教わったような印象があります。確かに時の権力者である徳川家は激しい抵抗することなく江戸城無血開城しましたが、これら浅田氏の幕末小説を読んでいると、やはり明治維新とは戊辰戦争を持って完結した「内戦」だったことに気づかされます。戦争であったからにはそこには勝者と敗者が生まれました。この短編集に出てくるのはその中の敗者達の物語です。いや、それを言うと浅田氏の描く幕末小説は全てそうだと言えるでしょう。それは彼が描く幕末は全て滅ぼされる武士達の側から見ているからに他なりません。

 第一話「椿寺まで」は維新後の明治初期に日本橋西河岸町で反物屋を営む江戸屋小兵衛の過去への旅の物語。第二話「箱舘証文」は新生日本政府の工部少輔になった大河内厚と、警視庁警部となった渡辺一郎の再会の物語。第三話「西を向く侍」は幕府天文方にて暦の作成を行っていた科学者、成瀬勘十郎の最後の抵抗の物語。第四話「遠い砲音」は時間に振り回される陸軍中尉、土江彦蔵の持つ真の忠義の物語。第五話「柘榴坂の仇討」は井伊直弼の近習として桜田門外の変にあった志村金吾が世間より六年遅れて迎えるご一新の物語、そして第六話がタイトルナンバーとなる「五郎治殿御始末」です。会津藩とともに徳川幕府側として最後まで戦った勢州桑名藩に残ったある一人の武士の物語です。

 これらは全て明治維新の敗者の寂しく悲しい物語なのですが、そこには倒幕なのか佐幕なのか、攘夷なのか開国なのか?徳川なのか薩摩長州連合なのか?といった政治的な点に主眼はおかれず、ひたすら「サムライとは何だったのか?」が語られているように思います。それは彼の小説に繰り返し出てくる「江戸を占領し破壊し尽くした薩摩と長州の田舎侍」への辛辣な言葉からも読み取れます。
 そして江戸時代の市井もの小説を読みあさり、曲がりなりにも江戸の風習と雰囲気をわずかに残す東京の下町で育った身として、浅田氏を真似て「江戸をこんな大都会にしてしまった野暮な薩摩の芋侍め!」とこっそり悪態をついてみたくなるのです。(鹿児島県山口県出身の方々、ごめんなさい。他意はまったくありません)

 そんな浅田次郎氏の幕末小説を読んでみて何となく感じてきたことが、思いがけずこの本の第六話「五郎治殿御始末」のラストにて明確に浅田氏の言葉で語られていました。ちょっと長いですが引用しておきます。この本である意味一番感じ入ったのはこの部分でした。

 武家の道徳の第一は、おのれを語らざることであった。軍人であり、行政官でもあった彼らは、無私無欲であることを士道の第一と心得ていた。翻せば、それは自己の存在そのものに対する懐疑である。無私である私の存在に懐疑し続ける者、それが武士であった。
 武士は死ぬことと見つけたりとする葉隠の精神は、実はこの自己不在の懐疑についての端的な解説なのだが、余りに単純かつ象徴的すぎて、後生に多くの誤解をもたらした。
    <<中略>>  人類が共存する社会の構成において、この思想は決して欧米の理念と対立するものではない。もし私が敬愛する明治という時代に、歴史上の大きな謬りを見出すとするなら、それは和洋の精神、新旧の理念を、ことごとく対立するものとして捉えた点であろう。
 社会科学の進歩とともに、人類もまたたゆみない進化を遂げると考えるのは、大いなる誤解である。たとえば時代とともに衰弱する芸術のありようは、明確にその事実を証明する。近代日本の悲劇は、近代日本人の奢りそのものであった。 (浅田次郎作 五郎治殿御始末より引用)

 

 これが浅田氏の明治維新論であり、彼が書く多くの幕末小説で訴えかけているのは、まさにここに引用した文章に集約されているのではないかと思いました。これを理解すると、この号泣を誘う臭いほどの物語の数々が、より説得力を持って感じられます。それは薩摩とか徳川のどちらに正義があったとかいうことでなく、ましてや政治的な立場の問題でもなく、単純に日本の文化と歴史の話だと私は理解しています。

 「天切り松シリーズ」を読んだときに「明治維新がリアリティを持って感じられる不思議さを感じた」とその感想文に書きました。同じことはこの本からも感じられますし、浅田氏の言葉で直接的にそう書かれてさえいます。ともすると、現代の日本とは60年前の敗戦で生まれ変わったように感じがちですが、それ以前の昭和初期、大正そして明治時代はずっと連続しているのです。そして同じように明治維新とその前の江戸幕府時代もずっと切れ目なく続いており、それらは実はびっくりするくらい最近のことで、私たちの生活にもその影響は色濃く残っているわけです。

 例えば… もうすぐ11月の初旬に”暦の上で”冬がやってきます。12月には”大雪”、1月には”小寒“、そして2月には早くも”立春“です。「暦の上」って一体何なのでしょうか?いえ、もちろん”暦”とは旧暦を指していることは誰もが知っています。しかしどうして暦と実際の季節感はずれてしまったのか? 七夕含め多くの日本の風習は暦とともに本来の季節からずれてしまったままです。実態を知ると「暦の上では」という言葉がいかにも空しく響きます。この本の第三話の中で成瀬勘十郎が心配したとおり、旧暦とともに多くの文化、風俗が失われてしまったのでしょうか?

 読んでいると何となく落ちが分かってくるのに、その少し上を越えていく浅田ワールド。何度も泣きながらそんなことを考えてしまう本でした。さて、実はこの本と対になる幕末短編集がもう一冊あります。もちろんそちらも入手済み。読むのが楽しみです。

 おすすめ度:★★★★★★

たそがれ長屋:池波正太郎ほか

 長屋ものアンソロジーの第三作目が発売されました。今回のタイトルは「たそがれ長屋」です。ちなみに前作は「親不孝長屋」でした。今回も選者は縄田一男氏です。巻末の選者解説によると、この長屋シリーズ三作にはそれぞれテーマがあって、第一作はタイトルどおり「親子」がテーマ。そして二作目は「夫婦」をテーマに選んだものだったそうです。第一作目については誤解しようがないほど明確でしたが、二作目について私は「他人同士」がテーマだと理解していました。ちょっと選者の趣旨とは違っていたようです。でもまぁ、読書なんてそんなもの。オレ様解釈で問題ありません(よね?)。 というか、夫婦はそもそも他人ですし、あながち間違ってもいないかも。

 さて、そこで今作のテーマですが「たそがれ長屋」が意味するものはずばり「老い」です。年金や医療制度など昨今の社会問題に鑑みて設定したテーマだと言うのが選者の説明。格差が社会問題化して「蟹工船」が再び読まれるようになったのであれば、高齢者医療問題が表面化してきたこれからは「楢山節考」みたいな老人問題を扱った古典的小説が読まれるに違いない。そこでこの本も時代の流れに合わせて「老い」を扱った時代短編小説の傑作を集めた、と解説されています。そうすればこの本も売れるかも、ということでは無いようですが。実際、今作に納められた五編は老いることをネガティブに捕らえたものばかりではありません。むしろその逆と言えるかも。

 今作に収録されている作品は、池波正太郎の「疼痛二百両」、山本一力の「いっぽん桜」、北原亞以子の「ともだち」、山本周五郎の「あとのない仮名」、藤沢周平の「静かな木」の五編です。大御所作家から現役人気作家まで時代小説の世界を代表するそうそうたる顔ぶれです。前二作とは違って今回は始めての作家さんはなく、少なくとも一作は読んだことがあります。池波正太郎は選者である縄田氏が好きなのか、全二作でも選ばれていました。いや、当然市井もの時代小説となれば池波作品は絶対に外せないということなのでしょう。剣客商売シリーズを始めあまりにも有名な割に私はまだ余り手を出していません。何となくそこは「あがり」な気がして…。

 で、第一話はその池波正太郎作の「疼痛二百両」です。これは主人公がとある大名家の江戸居留守役なので正確には市井ものではありません。藩の外交官としての任務と、きな臭さの漂う藩内の政治状況、そして追い詰められた困窮財政との折り合いに悩む大原宗兵衛。父の教えを想い、友人との昔の武勇伝を想い、自分の為してきた人生を振り返る主人公。物語の背景設定の重さに反して物語はコメディ調に包まれています。長年かけて自分が積み上げてきた人生計画とは何だったのか? 破れかぶれになりながら宗兵衛の人生はそれでも続いていきます。

 第二話は山本一力昨の「いっぽん桜」です。一力作品と来ればもちろん舞台は深川です。丁稚時代から四十年勤めたお店を思いがけず定年退職することになった長兵衛の物語です。やや出だしが唐突な感がありますが、自分の仕事には自負を持ちつつも、リタイアを余技されなくなった長兵衛のやるせない気持ちの揺れ動きは、まだそんな経験のない私にも手に取るように分かります。家でゴロゴロしながらも誰かが助言を求めてくるのではないか、ライバル店から声がかかるのではないか、などなど。そんな長兵衛も第二の人生を見つけることになります。なんだか設定を少しずつ変えればストーリーはそのまま現代ドラマに置き換えられそうな物語です。

 第三話は北原亞以子作の「ともだち」です。これは深川澪通り木戸番小屋に収録されていたもので読むのは二回目です。なるほど、これは確かに「老い」の物語です。しかし他の四編と違っているのは、女性の老いをテーマにしていること。江戸の街で女性として老いていくことの不安と寂しさ。そして同時に江戸っ子、特に女性は見栄っぱりで人情に篤いのです。月に一度訪れる”ともだち”を待つおすまの浮き立つ気持ちの表現は見事としか言いようがありません。そしてちょっともの悲しくもあります。これもまた現代ドラマに置き換えられそうです。時代設定は空気感を作り出す上で重要ですが、それに頼り切っていない優れたストーリーというのは時代設定を超越していることを今更ながら感心してしまいます。

 第四話は山本周五郎作の「あとのない仮名」です。これは非常に難しい物語でした。そしてある意味山本周五郎作品らしく、どうしようもなく転落していく救いのない物語でもあります。主人公は元植木職人の源次。飲み屋や旅籠の女将、弟子だった多平との会話や源次の心の声で綴られていく文章は、非常に軽妙で粋で独特の雰囲気があります。それは読んでいてとても面白く心地よいものなのですが、次第に源次には謎が多いことに気づき、読者たる私も彼の言葉の中から必死に源次の心内を知ろうと必死になります。そして結末は…。先に書いたとおり難しく救いのない物語だったことに気づかされます。

 ちなみに源次はまだ年齢的には老人ではありません。しかし世捨て人になって人生を投げ出してしまった様はまるで老人も同然。いっぽん桜に登場する長兵衛と違い、若くして自らの人生を投げ出してしまった源次。ラストに向かって語られる彼の説明に納得できるでしょうか?

 第五話は藤沢周平作の「静かな木」です。これもまた「疼痛二百両」と同様に武家ものです。というか海坂藩を舞台にした藤沢ワールドそのものです。勘定方勤め七十五石の布施家の家督を長男に譲り、毎日釣りをして過ごす気楽な隠居の身となったはずの孫左右衛門。一人の武士として、一家の主としての責務は全うしたのですが、父親としての任からは隠居したからと言って免れることは出来ません。それは責任云々ではなく人情、愛情というものです。藤沢周平さんお得意の海坂藩内の政争を交えながら血を分けた家族のために頭を悩ませる孫左右衛門。スッキリとさわやかな読後感の残る物語で、この本の締めにふさわしい一編です。

 300ページあまりの文庫本であっという間に読み終わりますが、考えてみればこれだけ豪華な作家の作品がいっぺんに楽しめる、ある意味とても贅沢な一冊です。オムニバスのベスト盤みたいな感じでしょうか。いやいや音楽のそれ系ベストアルバムのような何となく投げやり感というか無理矢理感とか安っぽさは全くありません。一定のテーマに沿って編集され、その背景についてしっかりした解説もあって、とても満足度の高い本です。ただし、この長屋シリーズはこの三巻をもって終了となるようです。ちょっと残念です。


 この三部作を読んでいて思ったのですが、短編小説で自分なりのベスト集リストみたいなのを考えるのは楽しいかも知れません。色々テーマを設定したりして。それこそ自分的お気に入りベスト集のテープやMDを編集するみたいな感覚でしょうか。今は誰もやりませんが。もちろんMDやテープと違って実際に本は作れないのでリストを考えるだけですが。

 いずれにしてもそういう空想して遊べるようになるためには、もっともっといろいろな作家さんの色々な小説を沢山読まないと。しかも読んでも内容をすぐ忘れたらダメですし。そう言う意味ではこのブログの読書テーマのエントリーは読書記録として個人的に資料価値はとても高いのです。もちろん100%自己満足です(^^A

 おすすめ度:★★★★★

いっちばん:畠中恵

いっちばん (新潮文庫)

いっちばん (新潮文庫)

 

 大人気「おそろし」を買うときに迷った本です。結局期待していたとおりこの本は友人から手に入れることが出来ました。このシリーズは、日本橋通町にある大店長崎屋の病弱な若旦那「一太郎」と長崎屋に住み着くたくさんの妖たちが引き起こすコメディドラマです。荒唐無稽でナンセンスな出来事の中にも、緩くて柔らくて暖かい江戸時代の風情が感じられ、リアリティとかそんなことはどうでも良くて若旦那と妖(あやかし)たちの世界に引き込まれていきます。

 廻船問屋兼薬種問屋の跡取り息子としての自覚が芽生え成長しようとする一太郎を始め、好きなのに下手くそな菓子作りの腕を上げるべく大きな菓子屋に修行に出てる一太郎の幼なじみの栄吉。難しい事件を抱えては長崎屋に菓子を食べに来る頼りにならない日限の親分。於りんの迷子事件で一太郎と知り合った紅白粉問屋の跡取り娘で厚化粧のお雛。三途の川で知り合った冬吉とその兄弟などなど、今回もたくさんの個性的な”人”が登場します。

 そして一太郎の世話役として一太郎の祖母である大妖から派遣されている仁吉(白沢)と佐助(犬神)、家を軋ませる子鬼で菓子好きの鳴家(やなり)たち、一太郎の部屋にある屏風の付喪神(つくもがみ)で口が悪い屏風のぞき、その他鈴彦姫、見越の入道、野寺坊、そして天狗に稲荷の狐や狛犬などなど、この世の者ではないおかしな妖たちも相変わらずたくさん登場します。特に子鬼の鳴家たちはその滑稽で純真な行動、「きゅわわ!」という鳴き声、そして挿絵に描かれているイラストも可愛くて、多分このシリーズのファンの中では一番人気と思われます。私も家鳴りが大好きです。人には見えないけれど、いつも人間の周りをうろついている… ということを本気で信じたくなるほどです(^^;

 このシリーズは小説新潮ほかに連載されているため、一応各話毎に簡単に登場人物たちのプロフィールの説明があります。単行本を読み続けてきた一ファンとしては、それがもどかしいくらい。そして第七巻ともなると各登場人物や妖たちのキャラクターや行動もある一定のパターンではっきりと固定されてきます。でもマンネリと感じたり飽きが来たりと言うこともなく今作も十分に楽しめました。

 主人公の一太郎は病弱な金持ちのお坊ちゃんという立場なのになぜかストーリーは基本ミステリー仕立て。一太郎の周囲で起こる色々な事件に巻き込まれ妖たちと協力(?)しながら解決していきます。今回は一太郎、栄吉、そしてお雛といった若者たちのそれぞれの独り立ちにまつわる話が中心でした。ただ面白おかしいコメディばかりではなく、ちょっとまじめでシリアスな青春ドラマ仕立てになっています。その辺のバランスの良さは上手く出来ています。最もこれは過去六巻にも共通していたことですが。

 ちなみに今回のタイトル「いっちばん」ですが、これは鳴家に由来しているものです。鳴家達は一太郎の周辺にいる妖たちの中でも、感覚的に最も人間から遠いところにいるというか、ほとんど5歳児も同然の妖と言えると思うのですが、何事も一番になることが大好きなのです。そして今作のなかでも一番になるべく奮闘したり、狛犬にさらわれたり、罠にはまったりと大活躍(?)です。うーん、かわいい…(A^^;

 なお、新潮社のWEBサイトにしゃばけシリーズの特設サイト「しゃばけ倶楽部~バーチャル長崎屋~」を今更ながら発見しました。ここで配布されている鳴家の壁紙は速攻ダウンロードして使っています。それから昨年の「しゃばけ」に続きことしもフジテレビで「うそうそ」がドラマ化されるそうです。昨年放映されたドラマの出来映えを見てないので何とも言えませんが、ちょっと見てみたい気がします。でも、鳴家はどうやって実写で表現されるんだろう。実写とアニメ混成ならいいけど… と思ったら変な人形みたいなのが使われたようですね。全然イメージ違う… (-_-#

 おすすめ度:★★★★☆

赤まんま 慶次郎縁側日記:北原亞以子

赤まんま―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

赤まんま―慶次郎縁側日記 (新潮文庫)

 

 前作の「脇役 慶次郎覚書」を含む)「赤まんま」が文庫で発売されました。先月末にぶらぶらと暇つぶしに本屋さんに入ってみると、今月は思わず買いたくなるような時代小説の新作が目白押し。悩みに悩んで最終的に2冊を選んだのですが、主に悩んだのは2冊目の方だけで、この本を買うことは全く躊躇いませんでした。
 ありがちな捕り物のようでいて他にはない設定、ストーリー、そして雰囲気を持つ小説です。今作も期待に違わず、読んでいて思わず体中に震えが来るほどでした。それは感動というか痺れるというか何というか、北原亞以子さんの小説でしか味わえない独特の感覚です。

 慶次郎縁側日記シリーズは短編集の形式を取っていますが、各巻毎にある一定のテーマがあります。前作「やさしい男」は「貧困」がテーマだったように思います。そして今作「赤まんま」のテーマは、ずばり「男と女の愛」です。そして今回もまた慶次郎は単なる脇役。各編のストーリーの中で主人公になるのは色々な事情を持った様々な町人達。慶次郎はその物語の中にちょっとだけ顔を出すだけ。でも彼がいなくては締まらないほどの重要な脇役です。

 第一話の「三日の桜」は夫婦喧嘩の物語。いや、本当はもうちょっと背景は複雑で、若いときに苦労に苦労をを重ね米屋を開いたはおぬいと安兵衛の夫婦。小さいながらも店は順調に回り始め生活が安定したときにやってきた倦怠期。安兵衛の浮気に気づき、当てつけのように不要な浮気に走るおぬい。お互いの浮気がさらに二人を冷え込ませていきます。しかし助け合いながら苦労をした思い出までが消えるわけではありません。どこかでやり直したいとお互いに思いながら、すれ違いますます溝が深まっていく悪循環。最後に訪れる大立ち回りで、雨降って地固まる… とは行きません。お互いに反省して抱きつくような臭い落ちではないところがさすが北原節です。

 第二話の「嘘」はある女の嘘で塗り固めた半生の物語。恵まれない生い立ちを持つおはまが何とか生き延びていくために身につけた世渡りの術としての嘘。かわいそうな弱い女を演じる彼女はいつしかその嘘に縛られて身動きがとれなくなっていきます。それは単に自業自得、嘘を嘘で塗り固めたほころび、というような単純なものではありません。嘘を認めることが彼女にとってどれほど恐怖なのか? もしもああだったら、こうだったら… と誰でもが時折考える空想は彼女にとって生きていくための拠り所でした。そしてラストが秀逸です。嘘を暴いたがために生み出される新たな嘘。もしこうだったら… というとどまるところを知らない人間の想像力。人間社会がいかに嘘と空想に溢れていることをさりげなく風刺しているようです。

 第三話の「敵」はダメ亭主を支える献身的な妻の物語。賭博に溺れる男の転落というのは時代物ではよくある話ですが、建具屋を営む民蔵が溺れたのは富籤(=宝くじ)でした。それも元はといえば借金を返すために藁にもすがる思いで手を出したのが始まり。いつの間にか富籤のために借金を繰り返すようになった民蔵。それでも必死に家庭を守り民蔵を支え続ける妻のたつ。ひょんなことから二人に関わってしまった蝮の吉次の語り口で進む物語はまるで前作のタイトルナンバー「やさしい男」と同じ雰囲気です。捻くれきった善人、誰よりも正義感が強く優しさを持ちながら、誰からも恐れられる悪徳岡っ引きで名が通る吉次。彼は民蔵とたつの夫婦の問題にどんな決着をつけるのでしょうか。吉次の物語らしい落ちに思わず笑ってしまいます。

 第四話の「夏過ぎて」は不倫をした男と女、そして取り残された家族の悲しみと憎しみの物語です。実は捕り物でありながら珍しいことに慶次郎シリーズでは滅多に死人が出ないのですが、この物語では珍しく殺人事件が発生します。それも非常に残虐でやりきれない事件です。北原節で語られる慶次郎の世界は基本的にとても粋で美しいのですが、基本ハードボイルドなだけにひとたび殺人となると徹底的に凶悪になります。この物語の主題はその殺人事件謎解きではなく、事件の背景にある人間模様です。犯人の独白を聞き思わず同情したくなりますが、同時に否定しようのない正義を突きつけられ、読者の心を大きく揺さぶります。その心の揺れ動きは本当にこんな事件に巻き込まれた当事者だったらどれほどのものなのでしょうか?

「お前のかみさんは気の毒だが自害だよ。そしてお前も手前で手前を殺した。が、おちかさんには生きるべき人生があったんだ。」

 これは慶次郎がラストでしゃべる台詞(の一部意訳)です。慶次郎シリーズを第一巻から読んでるファンには、この台詞が慶次郎の口から出たのを聞いて(読んで)ズシッと心に来るものがあるはずです。私はすっかりやられてしまいました。この本の中ではもっとも重くて心に残る一編です。

 第五話の「一つ奥」も夫婦愛の物語。でもちょっと毛色が違ってミステリー仕立てになっています。ある日の深夜、刺殺体で見つかった善七。彼の妻おさいは行方が分からず、おさいの姉妹親族、関係者がすぐに番屋に集められます。そこへ駆けつけた慶次郎の養子の晃之助。彼ら彼女らから善七とおさい夫婦のことを色々聞き出します。お互いに牽制し合いながらぽろぽろと少ししゃべり始める姉妹親族たち。誰もがおさいが犯人だと頭の隅で思いながら、その話題を避けて通る微妙な空気。親戚内にある細かいわだかまり。そして最後にようやく番屋に連れてこられた渦中の中心人物おしん。彼女の口から語られた事件の真相と、彼女の心の内とは。兄弟にも親戚にも誰もの想像の遙か上を行くおしんの告白。晃之助までもが涙する感動のラストです。まるで舞台劇の脚本を読んでるかのような一編です。

 第六話はタイトルナンバーの「赤まんま」です。将来夫婦になることを夢見ていたおみちと丈吉の物語です。幼なじみの二人は成長して大人になってから久しぶりに出会って恋に落ちる… というのはよくある流れですが、その後結局不治の病に二人は引き裂かれてしまいます… という流れもやはりありがちではあります。しかしこの物語のポイントはそこにあるのではなく、引き裂かれる直前に二人が交わした約束にありました。「赤まんまの簪が欲しい」とつぶやいたおみち。「いつか必ず買ってやる」と約束した丈吉。そして商いに成功し材木問屋の主人となり、丞右衛門と名前を変えて独身を貫き通している丈吉の手元には、値がつけられないくらい素晴らしい細工で赤まんまを象った簪があります。おみちを忘れられず愛し続けながらも、過去に縛られて身動きのとれない丞右衛門。彼の心を解き放ったのは慶次郎の一言とは…。

 第七話の「酔いどれ」もまた夫婦愛の物語。縄のれんに勤めるおつぎの亭主留三郎は仕事もせずに昼間から酒を飲み続け、時折おつぎの暴力を振るうダメ人間です。しかしどんなにひどい仕打ちを受けてもおつぎの留三郎への献身は変わりません。世間は誰もが「別れてしまえばいいのに…」と心配する中で、健気に留三郎の世話をしては折檻されるおつぎ。しかしこの二人には誰にも知られていない、知られてはいけない過去と秘密がありました。それは一体何だったのか? 留三郎の告白はとてもショッキングで悲しい物語です。

 第八話の「捨てどころ」はちょっと雰囲気が違って、男と女というよりは母と娘の物語です。半ば駆け落ちのようにして実家を捨て貧乏生活を送るおまきと、有り余る財産を持って優雅な隠居生活を送る母親のおれん。娘のおまきが感じるのは、自分が愛した人を受け入れてくれなかった母親へのわだかまり、実家を捨てたことへの後ろめたさ、そして生活が苦しくお金をもらっている後ろめたさです。母親のおれんにしてみれば、娘の愛する人を拒絶したことへの後ろめたさ、実家を捨てた娘への失望、そしてお金でしか娘とつながっていないことの心細さです。お互いにお互いを必要としながらも意地を張り合う二人。果たしてこれは「親の心子知らず」なのか「子の心親知らず」なのか? 家よりもお金よりも、何よりも大事なのは家族なのだと訴えかけてくるようです。

 北原亞以子さんの書く小説では、人間の微妙な心の機微がとても美しく上手く表現されていると思います。状況や背景などの説明的な部分は必要最小限で、物語のほとんどがその場の空気、登場人物たちの心の動きで表現されているようです。いつかも書いた気がしますが、北原さんの小説で描かれる人物はわずか40ページの短編の中にしか登場しないとしても、その人が30年なら30年の人生の積み重ねが感じられるほど非常に生々しくて厚みがあります。

 北原作品はもちろんフィクションなのですが、きっと記録に残っていない名も無き無数の人が北原さんの小説に出てくるような人生を送って江戸に暮らしていたんだろうな、と思わず思いを馳せてしまいます。その辺の想像力をかき立てる部分も私が北原節が好きな一つの理由かと思います。

 おすすめ度:★★★★★