酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

鳥肌の立つ格好良さ:天切り松 闇がたり 第五巻 ライムライト/浅田次郎

天切り松闇がたり 第五巻 ライムライト

天切り松闇がたり 第五巻 ライムライト

時は昭和七年。チャールズ・チャップリンの来日を控え、華やぐ東京の街。その裏で、血気に逸る軍人たちの陰謀がひそかに進行していた。五・一五事件の前日に来日した大スター、チャップリンの知られざる暗殺計画とは――。粋と仁義を体現する伝説の夜盗たちが、昭和の帝都を駆け抜ける。目細の安吉一家が挑んだ、一世一代の大勝負とは? 人気シリーズ、最新刊。表題作「ライムライト」ほか5編を収録。

 Kindle Paperwhiteを思わず買ってしまったきっかけとなったのがこの本です。浅田次郎さんの「天切り松闇がたり」シリーズの第五巻目をAmazonで見つけてしまい、しかもそれが文庫化はされていないけど、Kindle版にはなっていました。ちなみに単行本が発行されたのは一年以上前、去年の年初のことです。Kindle版は文庫ほど安くはないけど、単行本よりは安く設定されています。

 このシリーズは2008年の冬に第一巻を時代小説と間違えて買ってしまったのが出会いでした。仕方なく読み始めてみると、それは文字通り「鳥肌が立つ」ような面白さで、当時発行されていた第四巻まで一気に読み切りました。これまでの私の読書歴の中では、確実に三本の指に入る作品です。

 しかしその後は待てど暮らせど続編が出てこないので、もうこのシリーズはこれっきりなのかと諦めて忘れかけていた頃、七年ぶりに本屋ではなくネットで思わず新作に出会って、当時の鳥肌が立つ感覚を思い出しましてしまったわけです。

 これは時々ゲームをしたりSNSを行ったり来たりしながら、iPadで片手間に読むわけにはいかない。もっと天切り松の世界に没入しなくては、と思ってKindle端末ごと買ったというのが真相です。

 さて、七年前の記憶からは一冊あたりのボリュームはもっとあると思っていたのですが、今回は久しぶりで勢い喜び勇んで読んだせいか、物足りないと思えるほどあっという間に読み終わってしまいました。いえ、それでも中身は七年前に夢中になって読んだあの世界観と変わっていません。いささか登場人物の人間関係を思い出すのに苦労しましたが、松蔵の闇がたりの声にすぐに引き込まれていきました。

 時代は現代。年老いた松蔵が警察や訳ありの若者達の前に現れて、突然昔話を語り出す... という謎の設定のが全編にわたって共通するプロットです。つまり物語は二重構造になっています。その物語の中の松蔵が語る昔話の時代は昭和初期。そこには自分は経験のないはずなのに、なぜか懐かしさを感じる古き日本の、東京の風景があります。

 と言っても、ありふれた「昭和賛美」のような美しくも感動的な人情物語ではありません。何しろ松蔵はやくざもの、というか任侠の世界に生きた男です。裏社会の人間、簡単に言ってみれば犯罪者の話でありながら、法律的な意味を超越し、真の正義とか倫理を感じさせるものです。そこにはどこにも違和感はなく、松蔵の声はすんなりと、心地よい響きで耳に流れていきます。

 親分の「目細の安吉」はじめ、黄不動の英治、振袖おこん、説教の寅弥、百面相常次郎などの兄貴達との思い出話が、一話ずつ短辺形式で収められています。過去の四作では松蔵はまだ子供時代のことでしたが、この第五巻になると、彼ももう二十歳前後とかなり大人びてきました。華やかな大正時代が過ぎ去り、関東大震災を経て色々と世の中がきな臭くなってきた昭和初期。彼らの暮らす裏社会も色々と変貌していました。

 過去作で良く覚えているのは、大川端で仁王立ちになり、将校相手に啖呵を切る掏りの名人、振袖おこんの姿です。かっこよすぎて鳥肌が立ったのを覚えています。彼女の啖呵は今作でも健在でした。

おう、住之江の御曹司。月光価千金たァ、よくぞ言ってくれたものだの。石ころが見ようがダイヤモンドが見ようが、お月様の値打ちにァ何のかわりもねえ。・・・中略・・・まあそれはそれとして、今さっきの洒落たお言葉だが、唐突なものなら唐突に終わってもよござんしょう。そんじゃあ若旦那、三千世界も金輪際、ごめんなすっておくんなさんし

 今回の登場は第二夜「月光価千金」だけでしたが、相変わらずの切れ味です。

 そして今作で一番登場回数が多かったのが説教の寅弥。彼の悲しい記憶からでてくる言葉は、今の時代の空気に生きる私にも良く響きます。

女房子供のために死んだか。そうじゃねえ。男の命はそれほど安かねえぞ。
そんじゃ、お国のためか。けっ、ばかくせえ。人の命はお国に召し上げられるほど安かあるめえ。

 彼が語っているのは太平洋戦争のことではありません。もっと前のこと。人は同じことを繰り返しているのでしょう。まもなくもっとひどい戦争が起こるなんて寅弥は知りません。

 それからもう一つ。そんなはずはないのになぜか「懐かしい」と感じる、昭和初期の浅草の風景が登場しました。よく知ってる町並みだけに、その情景は知らない時代のこととはいえ、とてもリアルに目の前に浮かんできます。

・・・こうしてみると、震災後に様変わりしたのは銀座よりも新宿よりも、やはり浅草なのかもしれない。
 ポキリと折れた十二階は工兵隊が爆破した。大川の両岸には広い公園が造られた。昭和二年には地下鉄も引かれ、去年は吾妻橋も架けかえられて、神谷バーの向かいには白亜の御殿みたいな松屋デパートが開店した。
 当時のモダンボーイとモダンガールは、地下鉄に乗ってやってきて松屋を覗き、神谷バーで洋食を肴にデンキブランを飲んでから、観音様は素通りして六区の活動写真やレヴューを観に行くのである。

 今でも現役の神谷バーの建物は大正時代の建築で関東大震災を乗り越えたものです。そして震災後変わってしまったという浅草の風景を象徴する吾妻橋、松屋のビルはやはり今もそのまま現役で使われています。松蔵が眺めた変わってしまった風景は、私たちから見れば長年変わってない昔のままの浅草の街と言えるのでしょう。むしろ、一番古そうな観音様こと浅草寺こそ、今の建物はすべて戦後に再建されたものだったりします。

 閑話休題。ということで、一気に読み切ってしまった久々の松蔵の闇がたりは、期待に違わぬすばらしいもので、時には鳥肌を、時には涙を誘うもの、そして時にはなぜか郷愁を誘うものでした。続編に期待したいところです。時代はどんどん悪くなっていきますが、一方でそろそろ松蔵自身が主人公となる闇がたりが聞けるのかもしれません。

 忘れてしまった部分も多いので、過去四作を改めて読み直してみたくなりました。文庫本はもうどこにあるのか分かりません。しかしもちろんすべてKindle版で買えます。そして今度は保管場所を気にする必要も、なくなる心配もありません。電子書籍バンザイ!