読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

蔦屋が生み出したもう一人の謎の浮世絵師:喜多川歌麿女絵草紙/藤沢周平

喜多川歌麿女絵草紙 〈新装版〉 (文春文庫)

喜多川歌麿女絵草紙 〈新装版〉 (文春文庫)

江戸の町の人びとや風景を生き生きと描いた浮世絵師には、素性が知れていない人が多い。生涯美人絵を描き、「歌まくら」「ねがひの糸口」といった枕絵の名作を残した喜多川歌麿は、好色漢の代名詞とされているが、実は愛妻家の意外な一面もあった。著者独自の手法と構成で人間・歌麿を描き出した傑作長編。

 iBooksを試すために選んだ一冊です。藤沢周平作品はあまりに数が多く、ちゃんと系統立って読んだことはなくて、目に付いたものをつまみ食い的に読んできてしまいました。しかも編纂の異なる短編集があったりして、うっかりすると買った本の半分は既読の作品だったりします。なのでどれを読んでどれを読んでいないのか、今ひとつ自信が持てないところだったりもするのですが、しかしこの作品は本屋さんでも見た記憶がなく、初見であることを確信。初めて触れるiBookを試すのに、時代小説のスタンダードの中のスタンダード、藤沢周平作品はぴったりだろうと言うことで選んでみました。ちなみにiBooksストアで買うと380円、Kindle版は378円、文庫版新品だと586円です。

 歌麿と言えば蔦屋重三郎が見つけた才能の一人。江戸文化の中でも蔦屋の時代には多くの才能が花開き、とても賑やかな時代でした。山東京伝、十返舎一九、曲亭馬琴をはじめとした戯作者や、葛飾北斎や東洲斎写楽が一同に生きていた時代です。同時に江戸歌舞伎も盛んな時代で、松井今朝子さんや宇江佐真理さんをはじめ、多くの作家がこの時代のこの世界を題材に小説を書いています。そして藤沢周平までもが書いているとは知りませんでした。

 そういう意味では、蔦屋にまつわる人々を描いた小説をたくさん読んできたからこそ、この漢字だらけの一見するとよく分からない表題が目にとまったような気もします。謎やドラマの多い蔦屋の周辺に置いて、ひときわ小説になりやすいのはなんと言っても写楽ですが、一方で喜多川歌麿は、当時一番の絵師でありながら、蔦屋の誘いを断り役者絵を書かなかった絵師として、いつも写楽と対局にいる脇役、小説的には当て馬的に扱われているように思います。

 そんな喜多川歌麿を主人公に置いたのがこの作品。それを藤沢周平の語り口で読めるのですから、なぜこれまでこの本を読まなかったのか不思議なくらい。読後感としても素晴らしい一冊でした。珍しいことにこの本の巻末には、藤沢周平自身によって書かれた後書きが付いています。

 そこにはこんなことが書かれています。

 浮世絵師という存在に惹かれるのは、彼らの描き残した作品が、官製の匂いをもたず、自由に人間や風景を写していることの他に、もうひとつ、彼らの素性のあいまいさということがあるように思われる。わからないものほど、興味をひくものはない。
 浮世絵師たちは、ごく身近な町の人びとを生き生きと描いたが、彼ら自身も多くは町の人間だった。しかめつらしく素性を問われる種類の人間ではなかったわけである。なかには初代豊国とか、武家出の栄之、栄泉、広重といった、比較的素性が知れているひともいるが、歌麿も北斎も、春潮も素性が明確でない組に入る。ことに写楽はその最たるものだろう。

 なるほど、そういうことなのか、と改めてこの時代の絵師や戯作者たちの世界に興味を覚えました。

 歌麿は美人画で一世を風靡した人ですが、その素性や生活は不明で、勝手に色々な解釈がされているとのこと。藤沢周平はそこに独自の解釈をこの作品で試してみたかったらしく、かといって根拠があるわけでもないので、これが正しい歌麿だと力説つもりはない、とも書かれています。そしてこの本に登場する歌麿は、すでに絵師として絶頂期にあります。蔦屋の依頼による役者絵を書かない理由、理想の美人画を追い求めるこだわり、女性の好み、そして生活のことなどなど、特殊な立場に居ながらにして、等身大の人間の悩みが蕩々と語られています。そしてそこには解はありません。小説的な落ちもなく淡々と進む物語。なのになぜこんなにも引き込まれるのでしょう?

 なお、この作品中にも謎の絵師、写楽は登場します。田沼意次が失脚し松平定信の施政となって、荒んできた江戸の風俗。しかし芝居も浮世絵も戯作もしぶとく生き残ります。そして俄に役者絵が流行り始め、そんな中で歌麿が逡巡し、やがて写楽が登場する時代背景が、実に自然に語られていきます。そう、なるほど、そうだったのか!と思わせる説得力で。

 素晴らしい説得力とリアリティをもっているにもかかわらず、必ずしも事実を書いてるつもりではないというところが、実に藤沢作品らしい、正統派なフィクション、元祖娯楽のための時代小説です。久々にそんな素晴らしい藤沢周平の世界に触れて、その奥深さを思い出しました。

 亡くなって相当に時間が経ち、ある意味古典化してきている藤沢周平作品は、条件が揃っているためか電子書籍化がかなり進んでいることを今更発見しました。KindleでもiBooksでもどちらでも同じように読めるようです。なので、これを機会に少しずつ未読の本を電子書籍で読んでいこうかと思います。