次に読む本を買わなくてはと、いつもの通り本屋さんを徘徊していたある日、普通は文庫本コーナーを一巡りもすれば見つかるこれと言った本に、なぜかなかなか出会えず二周か三周書棚をウロウロしてしまいました。そんな時は有名大御所作家の作品の中から、未読のものを適当に選んでおけば、まず間違いはありません。と言うことで、今回狙いを定めたのは、あまりにも作品数が多く、今までなかなか手を出せていなかった池波正太郎です。
で、その膨大な作品群の中からどうやってこの一冊を選んだかというと… まさに”ジャケ買い”ならぬ、”タイトル買い”してしまいました。まったく何の情報も持たずに適当に本を選ぶ基準としては、意外に意識しなくても”タイトル買い”していることは少なくないのですが、今回は特にこの本の「さむらい劇場」という語呂にピンと来てしまいました。「侍」でも「士」でも「サムライ」でもなく「さむらい」。いったいどんな劇場で、どんなお芝居が繰り広げられるのでしょうか。
帯に書いてある範囲で内容を紹介しますと、主人公の名は榎平八郎。七百石取りの歴とした旗本の家に生まれた三男坊。しかし彼は妾腹の生まれで、ただの三男よりもよりさらに立場の弱い冷や飯食いです。物語は彼が21歳になったところから始まりますが、この出だしの時点で彼は相当にハチャメチャな暴れん坊であることがすぐに分かります。背表紙の要約にあるように、まさに「酒と女に溺れる家中の鼻つまみもの」なのです。
と、ここまで書いて思い出したのですが、ちなみに最終的にこの本を買うに至った最後の一押しは、帯に書いてあった「お色気も満載の清秋時代小説」という一言。良いですよね、このコピー。かなり楽しげな冒険活劇っぽい雰囲気が溢れています。米村佳伍さんや佐伯泰英さんの小説のような爽やかなヒーローものを彷彿とさせます。
文庫本で600ページを超える長編大河ドラマなのですが、そのほぼ中間地点まではまさに当初の印象通り、平八郎の破天荒な活躍による冒険活劇の様相。そのストーリーは一見脈絡がなく、いったいストーリーがどこへ向かっているのか分からなくなるほど。なんだか連続ドラマの脚本のよう。そして設定も荒唐無稽とも思えるハチャメチャぶり。そう、文体こそ違いますが、まさに米村佳伍あるいは佐伯泰英作品のような世界観です。
しかし、後半から急速に物語の様相は変化します。いや、流れに不自然さを感じるようなことはないままに、いつの間にかこの物語は、榎平八郎という不安定な立場に生まれた、一人の男を通して人生論を語った物語であることに気づかされます。
この本を読んでいる間、榎平八郎はもちろん読者である私のとってのヒーローですが、彼が暴れ回っていた時代から、歳を経るごとに成長し、自分の生まれや両親について、そして家について、己の人生について考え、気づいていく過程をともに感じていく同士でもあります。
時代は徳川吉宗の統治時代。江戸時代のバブルが過ぎ去り、鎖国政策による政治や経済のひずみが溜まってきて、漠然と未来への不安が社会に漂い始めた頃。その空気感も見事に感じられます。日本の歴史上初めて百年以上にわたって戦争というものがなく、平和をもたらした徳川幕府の統治の強固さ、一方でこのままでは先が続かないという閉塞感。その中で一人の”さむらい”に出来ることと言うのは何なのでしょうか?
後年、平八郎はこう思い、悟ります。
信長や秀吉ごとき英雄にしても、彼らのおこなった破天荒な種々の行為や、すさまじい権謀や戦闘や、それらのものさえ、煎じつめてみると、 (われらとおなじことだな) そう思えてならない。大事も小事も、ひとのすることは、みな同じようなものではないか。
しかしこれは、人生何をしたって所詮全ては無駄だ、と世を疎んでいるのではありません。この本の解説を書いている佐藤隆介さんは、この作品についてこう解釈しています。
私たちの歴史教科書によれば、江戸時代は封建制度の時代であり、一部の特権階級が全てを独占して、それ以外のすべての人びとはおよそ非人間的な屈従の生活を強いられていた・・・はずなのだ。ところが、どうだ。
人生に限りない可能性を信じて生きていたのは、榎平八郎と彼を取りかこむ人びとである。伸びやかに生きる喜びを謳歌しているのは遠い昔の、封建時代の人びとである。
もちろん、この小説はフィクションです。事実、この榎平八郎のように生き抜いた人がいたかどうかなどと言うことは誰にも分かりません。でも、私が時代小説のなかでも、戦国時代物ではなく、特に江戸時代物が好きな理由は、この佐藤氏の言葉にあるのではないかと、思いました。
お勧め度:★★★★☆ (さすがは池波作品、誰にでも安心してお勧めできます)