あやし うらめし あな かなし:浅田次郎

 浅田ワールドを怪談で表現するとどうなるのか? その答えがこの本です。小説や物語は突き詰めるとファンタジーになり、中でも”怪談”は太古の昔から存在した究極の物語であると、解説されています。過去にもファンタジー小説を書いた実績のある浅田次郎氏ですが、私にはどうにもしっくり来ませんでした。でも、あの緻密で徹底的に読者の心を誘導する浅田次郎氏の筆によって怖い物語を書かせたら… それはそれは恐ろしい小説ができあがることでしょう。

 この本には計七編の怪談が収められていますが、中でも特徴的なのは第一話「赤い絆」と第七話「お狐様の話」です。これは浅田次郎さんが実際に子供の頃に叔母さんから聞いた話をベースにしています。浅田氏の母方の実家は奥多摩御岳山の山頂にある神社の神官を代々務めていたそうです。お参りする信者達のための宿坊を営んでおり、夏になるとそこに一族の子供達が集まり夏休みを過ごしたそうです。山頂の神社、宿坊の古い建物、たくさんの部屋、そこで寝物語として叔母さんが語る怖い話…。これ以上ないくらいの怪談の舞台が整っています。キャーキャー騒ぐ子供達はいつしか眠りに吸い込まれていきますが、浅田少年だけは物語の最後までじっと暗闇で叔母さんの声に耳を澄まして聞いていました。

 奥多摩の御岳山と言えば千年以上の歴史を持つ霊山です。日本武尊がこの山で道に迷い、白と黒の犬神が表れて先導したという神話の地。それ以来御岳山山頂には神社が開基され、日本武尊を祀るとともにお犬様信仰が根付きました。そんな由緒正しい神社の神官をしていた一族には、たくさんの不思議な話が伝わっていることでしょう。しかし、この物語で語られるのは叔母さんが子供の頃に体験したという、比較的最近(大正か昭和初期)の話です。「この目で見た」と言う以上に説得力のある怖い話はありません。「赤い絆」はなんだか正体が分からない幽霊が出てくるのではなく、人間が引き起こすおぞましくも怖い話。「お狐様の話」は霊山の神官が本領を発揮し、邪悪な”もののけ“と対決するファンタジー要素の強い怪談です。

 この二話に挟まれた五つの物語を軽く紹介しておくと、第二話「虫篝」はバブル崩壊で財産を失い文字通りの夜逃げをした男に訪れる人生の総決算、第三話「骨の来歴」は身分の異なる男女の愛の結末、第四話「昔の男」は老舗個人病院を支える看護師の生涯をかけた決心、第五話「客人」は金持ちの男と行きずりの水商売の女の駆け引き、第六話「遠別離」は多くの(還らぬ)兵隊を送り出した六本木歩兵聯隊のある兵隊と彼を待つ妻の物語です。

 私の勝手な感想かも知れませんが、どれもまるでスティーヴン・キングが書きそうな物語だな、と思いました。そういう意味で「怪談」というよりは「ホラー」という雰囲気。いや、むしろスティーヴン・キングのような外国作家が書く「現代物の怪談」を「ホラー」と呼んでいるだけと言うべきか。何となくそんなことを考えてしまいました。

 さて、この七編の中で特に面白かった物語がどれかと言えば、やはり「怪談」としてストーリーと落ちが楽しめたという点で、御岳霊山ものである第一話の「赤い絆」と第七話の「お狐様の話」かなと思います。夏の夜に暗くて広い部屋で大勢の子供達が叔母さんの語る怖い話を聞く、という設定だけでも引き込まれます。そうやって怪談を聞いた記憶が誰にでも一つや二つあるのではないでしょうか?そういう意味では、これらは怖さを助長すると言うよりも、何となくノスタルジーを感じさせます。また、子供と怪談というのはとても相性が良いですね。子供は純真だからこの世の者ではないものを感じやすい、と言う意味でもあり、子供はそもそもとても恐ろしいことをしでかす生き物だ、という意味でもあり。どちらに取るかは人それぞれかもしれません。

 しかし、グサッと心に突き刺さるような強烈な印象を残したのは、第四話の「昔の男」と第六話の「遠別離」です。両方に共通しているのは「戦争」です。これを怪談と言ってしまって良いのかどうかは分かりません。むしろ、怖いというよりも、とても悲しい物語です。その悲しさが凝縮したような、とても強く印象に残った一文を、「遠別離」の中から引用しておきます。

兵士たちの多くは、救いようがないのです。殺そうとする力に対して、生かそうとする力は余りにつたなかった。ほとんど無力と言えるほどに。それが戦争というものです。
 だが僕は、蟷螂の斧と承知しても努力を怠りはしなかった。
 戦で傷つき死んでゆく兵士には、忠節も愛国もないのです。みながみな、おのれの命を奪う文明を呪って死んでゆく。考えてもごらんなさい。本来なら人を生かす文明の利器によって人が死んでゆくという理不尽など、あってはならぬことではないですか。
 だから僕は、文明を担う科学者の意地において、人を生かすものこそが文明なのだと、彼らにわからせてやりたかった。たとえつたない努力でも、一門の大砲に向き合う一本の注射器が、蟷螂の斧に如かぬとしても。

 

 この物語を読んでいてこの一文にたどり着いたときには、なんだかわからないけれども大変ショックを受けました。私は医療の世界については患者として時々診てもらう以上のことは何も知りませんが、ここにはただのありふれた医療の目的や理想、人助けの精神などとは違う、何かもっと深いものが表現されているように思います。特に最後の一段落に出てくる「人を生かすものこそが文明なのだ」という言葉と「科学者の意地としてそれを(人々に)わからせてやりたい」と言う言葉には、(浅田次郎氏の考える)医師をはじめとした科学者全体の使命が訴えられているように思います。いずれにせよ、忘れがたい一節です。

 この物語を読んでいて、そういえば浅田次郎氏は確か医師の資格を持っていなかったっけ?と思ったのですが、彼の経歴を調べるとそれは勘違いであることが分かりました。そうではなく、彼は自衛隊に勤務したことがあり、その後は裏社会に片足を突っ込むなど、波瀾万丈で作家としては異色のキャリアを持っているようです。思い出してみれば、彼の作品はどれもその経験を大いに生かしているようです。「天切り松闇語り」もそうではないでしょうか。中でもこの怪談短編集は、自分の子供の頃の経験、士族の末裔としての立場、自衛官として(敢えてそう書くのですが)軍隊に関わった経験とそれに基づく戦争観、裏社会にいた時代の経験などなどが詰め込まれているようです。しかし、上に引用したような強烈な説得力を持った一文が、彼のどこから出てきたのかは分かりません。

 そしてもう一文。「遠別離」より。

 私、幸せだったわ。たぶん誰よりも。だって、あなたの声は六十年もずっと聴こえていたんだもの。こんな幸せな女が、ほかにいるもんですか。私は一等幸せだからね、だからみんなにかわって、あなたにお礼を言わなくちゃいけない。ごくろうさまでした。あなた。

 

 もう、号泣です。またまた完膚無きまでにやられてしまいました。降参です。

 戦争を美化するものでもなく、ましてや正当化するものでもなく、自虐史観などという下らない言葉とも無関係です。これらは、古くさくて繰り返し語られてすり切れたようなお涙ちょうだいの戦争の物語ではありません。特に明治時代の日本を敬愛する浅田次郎氏の戦争観であり近代日本史観の一つの表れであると思います。

 なんだか、怪談らしからぬ感想になってしまいました。それはやっぱりこの本も浅田ワールド全開なためかと思います。そういう意味では、個人的にはこの本のタイトルはどうなのかな?と思います。

 おすすめ度:★★★★★

まんがら茂平次:北原亞以子

まんがら茂平次 (徳間文庫)

まんがら茂平次 (徳間文庫)

 

 浅田次郎氏の書いた明治維新もの小説「深川澪通り木戸番小屋」シリーズで有名な北原亞以子さんの作品です。これが面白くないわけがありません。

 時代はまさに明治維新のまっただ中。薩長の官軍が江戸に入る直前から始まり、上野の彰義隊の戦い、そして新政府が樹立され元号が慶応から明治へと変わり、江戸が東京と言う名に改められるまで。ところは神田の下駄新道。そこの長屋に暮らすごく普通の貧乏な町人達の物語です。主人公はタイトルにもなっている茂平次。小柄で色白で、少々太り気味、下がった眉と二重まぶたの目に愛嬌があり、着たきりの川越唐桟の着物さえ取り替えれば、大店の道楽息子にも見えなく無いという男です。

 そんな愛嬌のある茂平次につけられた「まんがら」という渾名の由来については本を読んでもらうとして、彼の得意技はなんと「嘘をつくこと」なのです。いや、得意技と言うよりも体に染みついて自然と口をついて出てくるもので、嘘をつきながらまるで本当にそうだったかのような気になってしまうと言う、正真正銘根っからの本物の嘘つきです。でも茂平次のつく嘘は罪が無くて愛嬌のある嘘ばかり。騙されたと分かっても何故か憎めず、誰も傷つけることなく(いや、もちろん金や物を手に入れるためにも使われるのですが)、時にはむしろその場の諍いを丸く収めてしまうほどの威力を持っています。いうなれば茂平次は究極の「空気が読めるやつ」と言えそうです。

 物語はそんな茂平次が幕末の暮らしにくい江戸の町で見る明治維新の嵐と、同じように維新に翻弄される人々との関わり合いを中心に進んでいきます。短編集の形式をとりつつ、それぞれの物語において、それぞれの登場人物が茂平次と出会うきっかけが語り進められ、次第に茂平次を取り巻く人間関係が明らかになっていくという凝った構成。農家から家出してきた三男坊、剣術よりも笛が得意な大身旗本の四男坊、柳橋の芸者、大怪我をして大阪から送り返されてきた元新撰組、大身旗本の妾だった世間知らずの叔母の世話をする女、元町方の同心、そして薩摩から東征軍としてやってきた若い兵士などなど。茂平次を中心に江戸町人達から見た明治維新の江戸の空気が感じられる物語です。

 意外にもと言うべきか、やっぱりと言うべきか分かりませんが、この小説に登場する江戸町人達の明治維新に対する態度はやはり「我々の江戸が薩長に乗っ取られてしまう!大変だ!」というものです。徳川幕府とともに260年以上かけて作り上げてきた江戸を故郷として根付いた人々は、それが戦争で失われるのではないか?薩摩や長州が壊してしまうのではないかと恐れ、だとしたら江戸っ子としては徹底的に抵抗したい、幕府軍の側を応援したいと思いながらも、社会の底辺たる町人一人の力ではどうすることも出来ず、だとするならば命あっての人生なのだから世の中がどう変わろうとも生き抜いていけばいい、自分は自分であってお上がどうなろうとも変わらないのだから、と悩み抜くそれぞれの複雑な心内が語られます。

 しかし、物語の端々には、

何が回天の志だ、何が王子につくすだ。浪士を集めて江戸市中を騒がせているだけじゃないか。<中略>第一、維新も回天もなく、ただ一所懸命に働いている人たちの命や金を奪い、犠牲にしなければ新しい世の中が作れぬのだとしたら、つくってくれなくてもよいと、誰もが言うのではあるまいか。(「朝焼けの海」より)
将軍-公方様は武家の棟梁であり、文字通りのお上であった。薩摩藩主も長州藩主も、公方様の配下でしかない。その藩主に仕える侍達が倒幕を叫ぶのは、尊王に名を借りた謀反としか思えなかった。(「嘘八百」より)

 と言った、薩長のやり方を非難する言葉が数多く並んでいます。そして、

江戸にゃ、釣りはいらねぇって科白はあるが、まけてくれろなんてえ科白はないんですよ。古着屋をからかって値引きさせたら、その分をご祝儀だと言って置いていくのが粋ってもんです。(「わが山河」より)

 と、柳橋芸者が薩摩兵に啖呵を切って見せます。なのに、だからこそ、

お江戸は公方様のお膝元じゃありませんか。そのお膝元に、薩摩やら長州やら、外様の軍勢が攻め込んでくるというのに、焼いてしまおうという人はいても、守ろうとする人はいない・・・。なんと情けないことか。(「去年の夢」より)

 と、早々に逃げ出してしまった幕府旗本、御家人達の不甲斐なさを嘆いてみたりもします。その一方で、

「煙んたなびっ桜島ん向こかぁ、陽がのぼっとごわす。朝焼けん桜島なんかは、見すっごちゃ。桜島もそうじゃっどん、山も海も川も、お城ずい、俺を抱いて育てっくれたよな気がすっなぁ。」お城は天守閣のない屋形造りで・・・と、良作は熱のこもった口調でしゃべり始めた。(「わが山河」より)

 という風に、雑然とした江戸とは違う、薩摩をはじめとした日本各地の美しい風土への郷愁を誘います。そして最後には、

江戸の人達は皆、好きな人と所帯をもてたとか江戸が焼かれずにすんだとか、そんなことで満足し。明治の世を生きる気持ちになった。(「そこそこの妻」より)

 と結論づけます。 

 浅田次郎氏の明治維新観と同じように北原亞以子さんもまた、失われてしまった江戸時代というものを愛したが故に、それを破壊してしまった薩長連合のやり方に対して批判を行っているのかもしれません。上に引用した文章はどれも登場人物の口を借りたストーリー的行きがかり上の台詞ではありますが、そこに作者の考え方が入り込んでいると考えるのが自然です。もちろん両氏とも明治維新そのものを否定しているわけではありません。しかし、浅田次郎氏が「五郎治殿御始末」で書いたように、それにしてもあまりにも失ったものが多すぎた、という意味なのではないでしょうか。

 そこまで深読みしなくとも、時代小説家として江戸の町人達の目線からこの時代を見つめればこそ、当然江戸に暮らす人々が感じたであろう明治維新への戸惑いを表現しただけに過ぎないのかも知れません。新しい時代の到来は結構なこと、でも江戸を焼いてくれるな、と、茂平次はじめ江戸の町人達が叫んでいる声が聞こえてくるようです。

 日本独自の文化が花開いた江戸時代、宵越しの金は持たないながらも、それなりに豊かだった江戸の人々の暮らし。その中に息づいた粋な人々を題材に多くの小説を描いてきた北原亞以子さんだからこそ書ける明治維新の物語です。

 最後に、あまりにも北原節がかっこいいのでもう一文引用してしまいます。本当にこの小説の中でゾッと鳥肌が立つほどガツンと来るのは、

「泣くねぇ。隅田川の水で産湯を使った女だろうが。お前がいい女だからいけねぇのよ。」

 です。結局いつの世も人間のすることはとどのつまり「男と女」ってことなのでしょう。

 おすすめ度:★★★★★