涙堂 琴女癸酉日記:宇江佐真理

涙堂 琴女癸酉日記 (講談社文庫)

涙堂 琴女癸酉日記 (講談社文庫)

 

 江戸時代の風俗を描いた時代小説としては何とも欲張りで豪華な設定の小説です。八丁堀の町方の暮らし、謎の事件を追いかける捕り物、日本橋の繁華街、浮世絵を中心とした当時の風俗、医師と医療の事情、火事、吉原… おおよそ思いつく江戸時代の小説の種がこれでもかというほどに織り交ぜられています。
 しかしそこはさすがの宇江佐真理さん、強引さや不自然なところもなくとても自然です。むしろ、そんな豪華さよりも主人公の高岡琴の心うちがじんわりと共感を呼ぶ、宇江佐さんらしいちょっと悲しくてでも基本的に爽やかさを感じさせる物語です。

 主人公の琴は八丁堀の同心の妻であり長らく一家の奥を預かる主婦でしたが、長男が家を引き継ぎ、台所も嫁に明け渡したばかりの隠居の身。彼女の三男坊の賀太郎は早々に武士の生活を捨てて歌川派の浮世絵師として暮らしています。思いがけず夫を失い、隠居の身となった琴は賀太郎の誘いに気易く応じて、八丁堀を飛び出し日本橋通油町の賀太郎の住む町屋で暮らすこととなりました。

 町屋の暮らしが珍しく、近所に暮らす町人の幼なじみたちの家に遊びに行く毎日の琴の生活は自由気ままです。いや、賀太郎にうまく利用されて家事仕事を押しつけられた感もあるのですが、ともかく八丁堀の暮らしよりは開放感があるのは事実。そんな琴が毎日接する通油町界隈の人々の生活や見聞きしたことを短く日記にまとめていきます。それがタイトルにもなっている「琴女癸酉日記」の正体です。

 ストーリーの背後には町方の同心であった琴の夫の死にまつわるミステリーが流れ、その上に琴の目線を通して見聞きする様々な江戸の風俗が折り重なります。物語の要所要所に差し挟まれている琴の日記にあまりにもリアリティがあるので、もしかしてこの高岡琴という人物は実在し、その日記が遺されているのではないか?と思ったのですが、いろいろ調べてもそれらしい事実は見つからず、やはり基本的にはフィクションなのだと思われます。

 しかし、物語の背景にも取り上げられ彼女の日記にも記されていく江戸で起こった様々な流行や噂話というのは、実際に起きたことのようです。春慶寺の白蛇騒動や芝居を影響を受けた相対死(男女心中)の流行(後に禁止令が出される)は他の時代小説にも取り上げられる有名な話ですが、近星とぼた餅、無意味な歌と踊りの流行の数々、魑魅魍魎や幽霊などの不思議な噂と、その背景にあったものなどなど… 人々の口づてに広がる噂話というのは、現代ではテレビやネットなどで速度と範囲が広がっただけで、内容は現代のどうでもいいような噂や、意味不明な流行とあまり変わりがないことに気づかされます。

 さて、高岡琴という主人公にはなにか特別すごいところがあるわけではありません。武家に育った女性らしい強さと厳格さを持った一方で、そうはいっても町方の役人の家であったため、町人の生活にも通じる世間慣れした部分がバランス良く混ざった女性です。しかし、宇江佐さんの各女性は皆そうですが、これがなぜか可愛くて格好いいのです。敵をやっつけるわけではないけれど、この物語の中ではヒロインといってもいいでしょう。

 そして彼女は物語の最後の方でこんな日記を記します。

・・・涙堂とはいかなる建物にあるや。人の涙を満々と湛えた湖に浮かぶ東屋のごときものか。その中に供えるものは、また涙なるか。しかし、涙堂、この世にあるを知らぬ。人の心の中にひそかに建立したるものにあらぬか。涙堂の構え、大きなる人こそ、その悲しみも深しと思ゆ。妾の涙堂、中ぐらい。

 惚れてしまうこと間違いなしです(A^^;;

 おすすめ度:★★★★☆

贋作天保六花撰:北原亞以子

 江戸時代末期に人気を博した講談であり、後に歌舞伎にもなった「天保六花撰」を北原さんなりに解釈し、肉付けして書き下した小説です。タイトルにはその字面からは想像もつかない「うそばっかりえどのはなし」というふりがなが振られています。元となった講談「天保六花撰」は御数寄屋坊主でありながら強請を働いていたと言われる実在の人物、河内山宗俊を主人公とし、その他5人の悪党たちを描いた物語ですが、この”北原版”天保六花撰では宗俊の弟子であり御家人の色男、片岡直次郎が主人公となっています。

 これはどこかで読んだことのある話だな?と気づいたのは実は半分近く読み進めた後のこと。オリジナルの「天保六花撰」は知りませんので、同じく河内山宗俊らを題材にした小説は何かあったはず… とすぐに思い出したのは藤沢周平の「天保悪党伝」です。こちらも片岡直次郎が主役でした。しかし、半分読み進めないと思い出せないくらい、この同じオリジナルに基づく二つの小説は、そのディテールや構成や雰囲気が違っています。そして最後のオチも180°違うと言ってもよいかも。しかし、両者に共通するのは彼ら悪党がアンチ・ヒーローとして描かれているという点です。

 オリジナルにおいて「六花撰」というタイトルの由来にもなっている主な登場人物は6人。御数寄屋坊主の河内山宗俊、貧乏御家人で色男の片岡直次郎、剣客の金子市之丞、ちんぴらの暗闇の丑松、献残屋の顔を持つ森田屋清蔵、そして紅一点、直次郎に恋する吉原の花魁、三千歳。一見、何のつながりもないような6人は、それぞれがそれぞれの理屈を持って強請や詐欺や美人局などの悪事に手を染めていきます。そして6人揃って最後に打って出る大一番の勝負。そのクライマックスは読んでのお楽しみと言うことで、ここでは触れないことにしておきましょう。

 時代は江戸の末期、日本の経済は完全に商人が握り、徳川家を始め武家の支配階級としての権力は揺らぎ、経済力は完全に破綻していました。幕府中枢につながりを持つ河内山宗俊はともかく、無役の御家人片岡直次郎の生活などは借金漬けで日々のお米にも困るほどです。そんな歪んだ社会において、貧乏人の犠牲の上に富を築く巨悪たちから金を強請り取る彼らは、愛すべき悪人たちです。より大きな毒(悪)を制するための小さな(悪)毒と言ったところでしょうか。しかし、同じようなアンチ・ヒーローでありながら「天切り松」のような強烈で芝居がかった格好良さは感じられません。むしろ、彼らは狡賢く薄汚く嫌らしく情けない、と言った方が当たってるでしょう。でも「天保悪党伝」もそうでしたが、なぜだか憎めない悪党たち。特にこの北原さんの描く片岡直次郎が置かれた微妙な立場と彼の心の揺れ動き、どうしようもない厭世的な考え方には読者としても思わず同情してしまいます。

 さて、この”北原版”天保六花撰のキーになるのは直次郎の妻”あやの”の存在です。これは恐らくオリジナルにはなくて北原さんが独自に描き出した登場人物だと思われます。もちろん藤沢さんの「天保悪党伝」にも彼女は出てきません。”あやの”は絶世の美人ながら病弱で17歳まで家を一歩も出ず病に伏せっていたために、全くと言っていいほど世間を知らない女。その一挙手一投足、口に出す言葉ははまるで子供同然です。無邪気にも直次郎を慕い、尊敬し、頼り、愛する”あやの”は、その夫が悪党であることなど全く知らず、しかしそんな妻のために博打を打ち強請を働く直次郎。物語の中の”あやの”があまりにもあどけなくてかわいいだけに、世の中の闇に嫌と言うほど溺れている直次郎とのコントラストが際だちます。

 そして、直次郎は心の底から考えます…
 世の中の敵は金だけじゃない、女もまた敵なのだ。

 

 と。

 北原ファンとして驚いたことに、この作品は全体に渡ってコメディ調の文体が貫かれています。”あやの”の世間知らずぶりもある意味コメディですし、森田屋の薄毛、市之丞のケチさと風貌、丑松の恋とトンでも解釈な論語の受け売り、そして宗俊の長い長いこじつけな講釈… 物語のあちこちにちりばめられた滑稽な話もまた、ただ単に読者を笑わせるだけでなく、直次郎の抱える重たい問題と心の矛盾を浮き彫りにする背景の一つとなっています。

 しかし結末… にきて急にいつもの北原節が炸裂。不意を突かれてジワッと涙がこみ上げてきてしまいました。うーん、ずるいです。上手いです。先にも書いたとおり、落ちの付け方は藤沢周平版の天保六花撰とは大きく違っていました。私はこの北原版の方が好きです。

 おすすめ度:★★★★★

無事、これ名馬:宇江佐真理

無事、これ名馬 (新潮文庫)

無事、これ名馬 (新潮文庫)

 

 とても心温まるホッとする物語でした。文庫の新刊として本屋さんに並んでいたのですが宇江佐さんの作品というだけで即買いしました。タイトルがちょっと変わっていて、何となく武家ものかな?とは思ったものの中身が想像つかなかったのですが、読み始めてみれば江戸の町火消しの頭一家の物語でした。火事が多かった江戸において町火消しはヒーローであり男たちの花形職業。人々の命と財産と都会の秩序を守る公共サービスでありながら、そこに粋と伊達を追求したあたりはさすが江戸っ子です。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は「め組の喧嘩」事件から来ているようですが、”火事”という災難を幾度も乗り越えてきた人々の逞しさが強がりとなって出た言葉のような気もします。

 町火消しは大川の西に47組、深川に16組あり、これらは町奉行所の監督のものに編成された民間組織で、主に鳶職の人たちが勤めていました。火事が発生し半鐘が鳴らされると近隣の組が出動します。真っ先に現場に到着した組がまずは火元で纏をあげて消火件を獲得。組頭などが火事の状況を見て平人や人足たちに消火を指示していきます。当時の消火方法といえば、もちろん水も使われましたが主には延焼を防ぐ目的で周囲の建物を壊していくというのが主な方法です。火勢や風を読み誤ると被害が広がってしまうので組頭の責任は重大でした。纏はその消し口を決めていくための重要な目印。単なる自己主張の飾り物ではありません。もちろん火に巻かれる危険が一番大きく、勇気のいる役目です。火消しの人々があこがれの対象であり尊敬されたのは当然といえるでしょう。現代でも消防士は勇敢な職業として尊敬されていますよね。

 物語は大伝馬町近辺を担当する”は組”の組頭吉蔵の周辺で起こる人間模様を描いたもの。吉蔵の親戚と家族の男みんな”は組”の幹部たちです。そして火消しの男たちを支える妻や母や娘などの女たち。なかでも吉蔵の一人娘のお栄は、さすがに火消したちに囲まれて育っただけに、単なるしっかり者を超えて男勝りの啖呵を切る江戸っ娘です。

 全体を通して吉蔵の視点で語られているのですが、本当の主人公は吉蔵一家とは縁もゆかりもないとある旗本の一人息子、村椿太郎左右衛門だと言えるでしょう。太郎左右衛門はあるひ火事の現場でみた吉蔵たちの姿にあこがれて、吉蔵のもとに弟子入り志願をしました。というのも、彼は武家の跡取りの立場でいながらとても気が小さく、臆病者でしかも泣き虫なのです。子どもながらに両親や祖母らの期待を受けて、自らの心根を鍛えようと考えたのでした。

 さて、そんな吉蔵と太郎左右衛門の馴れ初めはやや無理があるというか、こじつけっぽいような気もしないでもないですが、読み進めていけばそんなことはどうでもよくなります。他人同士であるばかりか、どうやっても縁のできようのない、旗本と町火消しの頭という間柄でありながら、そんな吉蔵一家と太郎左衛門の不思議な関係が続いていきます。

 火事という災害(人災といったほうがいいでしょうか)につねに向き合う吉蔵たちの生活は緊張に満ちたものです。そうでなくても気の荒い男たちに囲まれた生活は殺伐としがち。そんな中に太郎左衛門は一種の爽やかさというか安らぎというか、とにかく吉蔵が経験したことないような全く違う空気を周囲に運んでできます。

 時代が時代であったなら、それこそ命をいつでも投げ捨てる覚悟で殺伐として緊張した生活を送るはずの武士の世界は、江戸の太平の時代にはすっかり様変わりしてしまいました。町人の吉蔵をしていらいらさせるほどのんびりと構えて覇気のかけらも見せない太郎左衛門。そんな彼がある日ふとこんなことを口にしました…

「昔はともかく、この泰平の世の中で死を以て贖わなければならないことなどあるのかと思います。人は与えられた寿命を全うすることこそ本望ではないでしょうか。」

 ここだけ抜き出すとどうと言うこともないですが、この物語の流れの中で吉蔵が聞かされることにはもっと深い意味がありそうです。

 この物語全体を貫くやわらかさというか優しさというか、とにかくホッと心が温まる読後感。これは単に宇江佐さんという女性が書いた小説だから… と思ったのですが、それだけではなかったようです。この作品は宇江佐さんは二人の息子を持つ母親としての気持ちから書いた、ということが作者本人によるあとがきに書かれていました。これを読んで改めて納得しました。吉蔵という火消し頭の目にすげ替えながらも、母親が子を見る気持ちで書かれた時代小説。とても新鮮です。

 人は誰かの兄弟姉妹なのか親なのか夫あるいは妻なのか、それは人それぞれで分かりませんが、誰でも誰かの息子・娘なのは間違いありません。

 おすすめ度:★★★★★

スタンド・バイ・ミー:スティーヴン・キング

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

 

 映画で有名なこの作品の原作は”Different Seasons”(邦題:「それぞれの四季」または「恐怖の四季」)という四季にちなんだ四編の物語からなる中編集に収められたものです。「スタンド・バイ・ミー」は秋の物語で原題は”The Body”… 直訳すると”死体”となります。日本語版は新潮文庫から発行されており、スタンド・バイ・ミーに加えて冬の物語”マンハッタンの奇譚クラブ“(原題:”The Breathing Method”)の二つの物語を収録しています。ちなみに、春の物語は”刑務所のリタ・ヘイワース“(原題:”Rita Hayworth and Shawshank Redemption”)、夏の物語はゴールデンボーイ(原題:”Apt Pupil”)です。春と夏はやはり新潮文庫から「ゴールデンボーイ」というタイトルで発行されています。

 なお、私はキング作品に関しては原題にこだわっています。以前「アトランティスのこころ」を紹介したときもこだわりました。それはキング作品に関するこれらの邦題の付け方には納得がいかないからです。原題には内容と深くつながった作者が考えた意味があります。特にキング作品はタイトルにこそ深い意味が隠されている場合が少なくありません。直訳では日本語でその意味が表しにくいこともあるでしょう。だとしてもこの意訳はないだろうと思うことが多くあるわけです。本作品に収められている「マンハッタンの奇譚クラブ」などは最低な例の一つです。そして同時に個人的には「スタンド・バイ・ミー」もどうかと思っています。

 この本は私が初めて読んだのは今から20年近く前になるかもしれません。映画を見るよりも先にこの原作を読んだ気がします。久々に読みたくなって本棚を全部ひっくり返したのですが、中々出てきません。一方「ゴールデンボーイ」のほうは茶色く焼けたかび臭い姿の古い文庫本が出てきました。しかしスタンド・バイ・ミーは誰かに貸したままになってるのか、どうしても出てきませんでした。なので仕方なく新しくもう一冊買って読み直してみました。

スタンド・バイ・ミー(The Body)

 さて、映画の「スタンド・バイ・ミー」を見たことのある方は多いと思います。1986年の作品でベンEキングが歌ったオリジナルの曲とともにとてもヒットした映画です。内容は、1960年代のアメリカの田舎町で悪ガキ4人組が徒歩で森の中へ冒険旅行に出かける物語。いくつもの絶体絶命のピンチに遭遇しながら目的地にたどり着き、そこで最後の大きな敵と戦う…。古き良き日と遙か過去に過ぎ去った少年時代の若さと無謀さを懐かしむノスタルジーにあふれた爽やかな物語…。しかし何かその背景には少年達の破滅的な境遇とやりきれない想い、醜悪さというか残酷さ、あるいはグロテスクさを感じられたのではないでしょうか? それもそのはず、そもそもこの4人の少年が冒険旅行に出た目的は事故死した同年代の少年の「死体」を見に行くためだったのですから。

 ここでは原作と映画を比較してどうこう言うつもりは全くありません。映画「スタンド・バイ・ミー」は出演者ともども脚本も演出も構成も素晴らしくよくできた映画でした。キングの各物語がいかに映像的かがよく分かります。しかし、原作から受けるインパクトというのは映画から受けるそれとはやはり全く異なります。この物語はノスタルジーに浸って少年時代を懐かしむ物語ではなく、なんと言ったらいいのか、自分の存在を確かめるため物語であり、自分とは何か?人間とは何か?を問い詰める哲学的な(しかし答えのない)物語であり、読んでいて基本的にとても息苦しくなるような辛い痛みを伴った物語なのです。

 語り口は少年の中の一人、成長し小説家となったゴードン・ラチャンスの一人語りの形式になっています。冒険の旅を思い出すとともに、そのたびが自分と友人達にどんな決定的な変化を与えたのか、今の自分にとってあの旅がどういう影響を残しているのか、独白が混ざり込んでいます。たとえば、死んだ少年が手にしていたはずのバケツは今どこにあるのだろうか?とゴードンは今だに考え込み、それを探しに行きたくて、いてもたってもいられなくなることがある… と告白します。

 ・・・この手にくだんのバケツを持つ、というのは、単なる考えに過ぎない。それは、彼が死んだのと同様私が生きていることの象徴であり、どの少年-5人のうちのどの少年-が死んだのかという証拠なのだ。バケツをこの手にすること。こびりついた錆と、失せてしまった輝きとから、歳月を読み取ること。バケツが寂しい場所で錆びつき、輝きを失っていたあいだ、私はどこにいたかを考える。どこにいて、なにをして、誰を愛し、どこにいて、どのように過ごしていたか。私はバケツを手に、歳月を読み取り、その感触を味わい・・・どんな残骸でもいい、かつてのわたしの面影が残っていないか、じっと見入るだろう。わかってもらえるだろうか? [28章より引用]

  と読者に問いかける下りがあります。この一節は何気なくてそれほど重要な部分ではないかもしれませんが、語り手であるゴードンの気持ちを一番理解できた部分でした。わかるわかる!と本に向かって叫び返してしまうくらい。
 こういった調子で、あの死体探しの旅は自分たちが大人になるためには不可避の道だった。そこには理屈も疑問もない。そしてあの冒険旅行がその後の4人の人生を決定づけた。それは一つの通過儀礼であり、人が生きると言うことと成長していくと言うことはあまりにも根源的すぎるために言葉にはできない… 分かってもらえるだろうか?と、ゴードンは何度も何度も思い返し、説明をし、読者に問いかけてきます。

 ”Stand by me”という言葉は実際に物語の中で使われます。地域一の不良エース・メリルに対峙したクリスがゴードンにささやきかける言葉です。これは単に一つのシーンの中で流れ去っていく台詞の一つではなく、この冒険旅行を経験したゴードンとクリスのその後の人生を表す言葉としてとても重要です。その後の人生において、クリスがゴードンにしがみつくことの意味は、自分の置かれた境遇から抜け出して独り立ちしていくための拠り所となる細い唯一の一本の糸でした。そしてゴードンにとってクリスにしがみつくその理由とは…。その理由は少年時代の死体探しの冒険旅行にあるのです。その部分は非常にあっさりと書かれていますが読者たる私にとってガツンとくる一節でした。これこそが”Stand by me”の本当の意味なのだと。残念ながら映画ではこの部分までは表現されていません。これは文字でしか表せないものですから。

 さて、この物語の主人公であるゴードン・ラチャンスは作家という設定になっていますが、この人物はスティーヴン・キングその人自身に被ってくるようです。実際自分の生い立ちを重ねている部分もあるのでしょう。ただし恐らくほとんどの部分はフィクションだと思われます。しかし、キングにはクリスに相当する友人がいたのかもしれません。”The Body”の献辞には”George MacRhodeに”と書かれています。彼は何者なのでしょうか?キングの作品には必ずこういった個人名入りの献辞がありますが。成功した後のゴードンの姿があまりにもキングに似ているためにいろいろと想像がふくらんでしまいます。

—マンハッタンの奇譚クラブ(The Brething Method)

 スタンド・バイ・ミーと同時に収録されている冬の物語です。実は20年前にこの本を読んだときにはこの物語は読みませんでした。まだ読書をじっくりすると言う忍耐がなくて興味のあるものしか読む気がなかったからだと思います。今回この本を買い直してみて、改めてまだ読んでいないキング作品があったことを思いだし、少しうれしくなって読んでみました。”The Different Seosons”の中では唯一映画になっていない一編でもあります。

 原題の”The Breathing Method”は訳すなら”呼吸法”と言ったところでしょうか。これは出産時に今では一般的になっているラマーズ呼吸法のことを指しています。物語は二重構造になっていて、ニューヨークはマンハッタンにある奇妙なクラブの中で雪の降るクリスマスの夜に80歳になるある老医師が語る昔話です。彼の患者だったある一人の未婚の妊婦。アメリカといえども50年前の東部はまだまだ保守的で、未婚の女性が出産するにはいい環境ではありません。白い目で見られ仕事も住むところも追われかねない始末。

 そんな環境下にあってピンと背筋をのばし、気丈に振る舞いながら診察を受けに来る女性にその医師はだんだん惹かれてゆきます。女性として、というよりは一人の人間として。

 50年前のクリスマスに起こったことを語る老医師。不思議なクラブのメンバー達は時折口を挟みながらその物語に聞き入ります。さて、結末はクリスマスの精神にふさわしいものなのでしょうか?

 物語の中で語られる物語という二重構造になっているわけですが、原題はその内側の妊婦の物語に対してつけられていますが、邦題は外側の、その妊婦の物語が語られる場をタイトルにしています。その不思議なクラブ、というのは、単なる舞台ではなく何かしらの意味を持っているのですが、やはりこの物語にふさわしいのは”呼吸法”意外にないでしょう。

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 この”Different Seosons”という中編集の成り立ちはキング自身によって書かれた「はじめに」に詳しく書かれています。キングは割と自身の作品に解説を加えるのが好きな作家といえるでしょう。「キャリー」や「シャイニング」などによってホラー作家の地位を築き上げてきたキングが、ホラーではない物語として書いてみたのがこの4つの物語だそうです。それは中編という雑誌に掲載するにも単行本にするにも中途半端な形になってしまったそうです。そこで思いついたのがこの中編集という形式。4つの四季にちなんでうまく納めることができたと。しかし、その提案を編集者にしたときのやりとりがおもしろおかしく書かれています。それが本当だとするなら、この本は市場から求められたのではなく、キング自身が出したくて出した本、と言うことになりそうです。

 しかし、そこにはSF映画界では巨匠と言われた監督が、アカデミー賞狙いに作った映画のような、わざとらしさや居心地の悪さはありません。怪奇ホラーものでないとしても、これらの物語はキングにしか語れない何かがしっかりと息づいています。

 お勧め度:★★★★★★

つくもがみ貸します:畠中恵

つくもがみ貸します (角川文庫)

つくもがみ貸します (角川文庫)

 

 「しゃばけ」シリーズで人気の畠中恵さんの比較的最近の作品です。「しゃばけ」シリーズは最新の「ちんぷんかんぷん」まで全て読みましたが、同じような妖(あやかし)達が活躍する小説が他にも何冊か発行されています。この本はそのタイトルにもあるように付喪神(つくもがみ)達が主役です。付喪神とは作られてから百年の時を過ぎた様々な道具など「物」に宿る妖です。掛け軸、茶碗、人形、簪、帯留め、根付等々、人間によって作られ長い間大事に使われてきた物に生まれる不思議な妖たちから見える人間の世界とは…。

 深川で若い姉弟が営む出雲屋は古道具屋兼損料屋を生業としています。古道具とくれば当然そこには古い物が集まってくるわけで、自然と付喪神と化した霊験あらたかな器物が集まってきます。ちなみに損料屋とはいわゆる今で言うレンタル業だそうです。個人から商家までいろいろな人を相手に布団など日用雑貨から料理屋向けの飾り物などなど、いろいろな物品を貸し出していたと言うことですが、この商売は江戸、特に深川の人々の暮らしの中には深く浸透していたそうです。これまでいろいろな江戸市井もの時代小説を読んできましたが、損料屋というのは初めて聞いた気がします。

 さて、物語は出雲屋を営む姉弟、お紅と清次とそこの商売道具である付喪神達の奇妙な関係をベースに、お紅と清次の過去の謎へと展開していきます。しゃばけシリーズもそうでしたが、基本的に畠中さんの小説はミステリー仕立てになっています。この物語ではお紅と清次が二人で出雲屋をやることになった過去にまつわる話。二人の前、特にお紅の前からある日忽然と姿を消してしまったある大店の跡取り息子と、彼が俳号に使っていた”蘇芳”という名の香炉を巡るミステリーです。

 五つの章立てで構成されており、一話ずつ完結する短編集でありながら全体としても一つの大きなストーリー仕立てというところから、この作品は単行本に書き下ろされたのではなく雑誌に連載されたシリーズであることが分かります。それぞれの章はそれぞれ付喪神の一人語りから始まります。これが非常におもしろくてあっという間に読者を付喪神のいる世界へと引き込みます。

 しかしお紅と清次と付喪神達の関係はしゃばけシリーズにおける若旦那一太郎と妖たちのそれとは少々異なっています。一太郎には妖の血が混ざっていたけどお紅と清次は純粋な人間(?)なのだから当たり前ではあるのですが。この人間と妖たちの一筋縄ではいかない関係にもどかしさを感じながらも、この物語をおもしろくしている背景の一つとなっています。

 さて、結末はどうなるのか。ミステリーとしての謎はなかなか深いながらも、全体的にファンタジーでありながら変に結末が重々しかったり、やたらに涙を誘うものだったりせず、軽妙でコメディ的な部分をうまく残しつつも少し感動的で、とてもバランスのいいストーリーと結末だと思いました。お紅と清次と付喪神達の奇妙な関係を存分に楽しめると思います。

 さて、自分の身の回りには付喪神はいるでしょうか?どう見回してみてもこの世に生まれてから百年も経っている物は見あたりません。江戸東京博物館深川江戸資料館にでも行けば出会えるでしょうか。おしゃべりは聞かせてもらえそうにありませんが。

 ところで、余談ですが「しゃばけ」シリーズもそうなのですが、この物語の中でも付喪神と化した器物の一つとして”根付”というものが出てきます。木材や場合によっては象牙などを彫って加工した小さな物で身につける物らしいのですが、これまた他の時代小説では小道具としてあまり出てくることがなく、根付って何だろう?という疑問がわいてきます。そういう場合、ネットは便利ですね。すぐに出てきました。

 根付とは↓こんなものだそうです。フリー百科事典Wikipediaより。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E4%BB%98

 日本人はこういう飾り物としての小物が好きですよね。今で言うと携帯ストラップみたいな物でしょうか。利休鼠や猫神の根付付きストラップってないかな?

 aisbn:4048737864おすすめ度:★★★★☆