酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

明治維新に大きな役割を果たした水戸藩の藩校弘道館と光圀公の足跡を見に行く

 少し前のことになるのですが、暑い週末のある日、特に予定も無かったのですが、お昼頃にふと思いついて水戸までドライブに出かけてきました。その目的は昨年から始めた百名城巡りです。なので最初はお隣千葉県にある名城、佐倉城にでも行こうかと思ったのですが、PEUGEOT 308SWでもう少し遠くまで行ってみたいな、ということで茨城県の名城、水戸城のスタンプを押しに行くことにしました。

 水戸藩と言えば、黄門様こと光圀公が有名ですし、徳川御三家の一角を占める名家です。そして幕末に井伊直弼を暗殺したのは過激派の水戸藩士でしたし、そもそも最後の将軍徳川慶喜も水戸出身です。御三家の中では規模が小さく影が薄いようでいて、戦国以降の歴史上の要点には必ず登場する大大名であることに間違いはなく、となればその居城はさぞかし立派だったのだろうと思っていました。

 しかし、実際に行ってみて分かったのですが、水戸城の遺構はほとんど残っていません。断片的に残る堀跡や石垣などは、現在学校の敷地になっていたりしまて「城趾」として整備されておらず、水戸城のあった場所は本丸も含めて完全に水戸中心街の中に埋没してしまっています。

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 そんな中で唯一、水戸徳川家の残像を感じられる遺跡として現存し、見学が可能な状態に整備されているのは、幕末に藩士教育のために作られた「弘道館」です。

弘道館

 戦国の世が去り泰平の江戸時代になると、武士に求められたのは武芸よりもむしろ学問という時代が訪れました。各藩にはそれぞれ藩士を育てるための藩校が作られましたが、それらは国のあるべき姿みたいな大きな問題を考え議論する場として、幕末に向けてより重要度を増していきます。

 徳川御三家の一角を占める水戸藩も、九代藩主斉昭によって「弘道館」と言う名の藩校が作られました。水戸城の遺構がほとんど残っていない中にあって、弘道館は正庁、至善堂、正門など、主要な建物が現存しています。

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 弘道館は本丸から大手門を出た正面、三ノ丸に位置しています。城と言うよりは寺社の小さな裏門と行った風情の、この小さな門が弘道館の正門で、国の重要文化財の一つです。正門は眺めるだけで、普段は開いておらずくぐることは出来ません。

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 正庁の正面には立派な桜の木がありました。満開になったらさぞかし綺麗でしょうね。説明の看板にある通り、この桜は左近桜という名前が付いています。名前からして京都風ですが、実際のところ仁孝天皇から下賜された苗木を植えたものだとか。

 しかし本物は既に枯れてしまったそうで、現在のこの木は昭和38年に新たに宮内庁から苗木をもらって、植え替えたものだそうです。桜の木にも歴史ありですね。

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 ここが玄関です。この写真にも写ってる左脇のパネルに書いてあったのですが、この弘道館は東日本大震災の強い揺れで、非常に大きな被害を受けたそうです。倒壊こそ免れましたが、壁の漆喰の類いはことごとく剥がれ落ちてしまいました。この玄関の壁も真っ白ですが、これは復旧工事の結果だとか。現在は全ての工事が完了しています。

 幕末以降、関東地方には安政大地震や関東大震災などがありましたが、水戸は震源から遠くあまり影響を受けなかったのでしょうか。東日本大震災は弘道館の創建以来最も大きな地震だったのかもしれません。

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 トップに貼った一枚と同じもの。この部屋は「諸役会所」というもので玄関の真正面に位置しています。水戸藩の藩医であった松延年の筆による「尊攘」の掛け軸が目につきます。

 水戸藩と言えば水戸学。大日本史の編纂を始めた黄門様こと徳川光圀にその祖があるそうですが、200年以上経って幕末の頃になると、水戸学と言えば非常に過激な「尊皇攘夷」運動に繋がっていきます。徳川慶喜の出身家でありながら倒幕派を多数生んだねじれは、藩内の抗争を引き起こします。

 浅学な私が水戸学についてどうのこうのとは言えませんが、幕末における「尊皇攘夷」ほどバカな言葉もないと思っています。(※個人の意見です)

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 学校と言うこともあって、中の造りは普通の大名屋敷やお城とはずいぶん違っているように思いました。

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 校庭に面した座敷にはこうした縁側付きの廊下があります。右手は武道の試合などを上役が見物するための座敷、正庁正席の間があります。

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 その正庁正席の間というのは、飾り棚付きの立派な床の間がある部屋で、そこにはまた巨大な掛け軸がかかっています。

 これは弘道館建学の精神が彫られた「弘道館記碑」の拓本です。実物の碑は敷地の奥の方、八卦堂に収められているそうです。この碑は戦争や東日本大震災で被害を受けてきたそうですが、そのたびに修復されているそうです。八卦堂は通常公開されていないということで、見に行かなかったのですが、もしかしたら外観は眺めることが出来たのかも?

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 学校と言うことで質実剛健な建物ではありますが、こうしてちょっとした小さな中庭があったりするあたり、当時の日本建築の美意識を感じます。

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 さて、弘道館の正庁は至善堂という建物と繋がっています。内部を見学してウロウロ歩いているといつの間にか至善堂に入っていました。

 こんな風に障子で仕切られた部屋が3つ連続しています。ぶち抜けば相当に広い部屋になります。ここは藩主などが訪れた時の休息所として使われたと同時に、教室でもあったそうです。なるほどね。何となく学生達が机を並べていた姿が想像できます(実際そういう使われ方してたのかどうか分かりませんが)。

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 そして至善堂と言えば、最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎の後、故郷の水戸に戻った際、しばらく居住した場所です。その際、江戸から持ってきた荷物が詰められていた長持ちがこうして展示されていました。

 派手な三葉葵の御紋が格好良いですが、260年続いた徳川幕府の最期を看取った慶喜とともに江戸から水戸へ落ち延びてきたと思うと、複雑な思いがあります。

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 さて、水戸城の遺構は事実上弘道館しかないということで、百名城スタンプは弘道館の受付でもらえます。ということで13個目のスタンプをゲットしました。

水戸城大手門

 弘道館以外に、ほとんど見るべきものが残っていない水戸城ですが、弘道館の向かい側、大手門周辺で何やら大きな工事が行われていました。

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 そこにあるのは大手橋。名前からしてお城と関係していることは一目瞭然です。そうです、ここは水戸城の大手門に続く道筋です。

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 そして城門に続く道にかかる橋となれば、その下にあるのは堀に決まっています。しかし現在その堀筋は道路になっています。道路両脇の高い斜面は土塁なのか石垣跡なのか? 水戸城跡周辺には、こうしていくつか土塁跡や堀跡を見られる部分があるそうです。

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 車の進入が制限されているこの工事現場では、なんと水戸城の大手門とそれに続く土塀、さらには二の丸角櫓の復元が行われているそうです。今の時代に復元すると言うことは木造なのでしょう。

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 大手橋脇には弘道館を作った斉昭公の像が建っています。九代藩主ということですが、やはり明治維新に大きな影響を与えた人と言うことで、光圀公とともに水戸徳川家の代表的な人物としてあちこちで名前が登場します。

 開発と戦争、震災などで失われてしまった水戸城の姿が少しでも戻ってくるといいなと思います。本丸跡には高校が建っているそうですが、昨年訪れた赤穂城跡なども一度本丸跡に建てられた高校を再移転して城趾を再建していました。赤穂より水戸はかなり大都市ですから難しいと思いますが、長い年月かければあるいは機会があるかもしれません。

水戸と言えば偕楽園

 さて、水戸の観光地として有名なのは水戸城よりも偕楽園です。と言うか、元をたどれば偕楽園も城の一部と言って良いのかも。これも創始者は斉昭公です。

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 で、偕楽園と言えば梅が有名なわけですが、当然ながらシーズンではありません。梅林はこんな感じで青々とした葉が茂っていました。

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 梅が咲いていなくても、園内はいろいろと見所があるのだろうと思いますが、今回はもう一つ寄りたいところが別にあったので、通り道として真っ直ぐ突っ切るだけにしてしまいました。やはりせっかくなので梅の季節にまた訪れたいと思います。

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 偕楽園の恐らく一番標高が高そうな山の上に、何やら風情のある茅葺きの二階建ての建物が建っています。好文亭というもので、元々はこの庭園を訪れた殿様が休憩する場所です。詰まりは斉昭が建てたものです。

 ただしオリジナルの建物が現存しているのではなく、昭和33年に再建されたものだそうです。現在はこの中でお茶などを頂くことが出来るようになっているそうです。

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 偕楽園は結構アップダウンがあって、途中わりとワイルドな森になっていました。しかしこうした斜面にも梅の木がたくさんありました。

徳川ミュージアム

 偕楽園を抜けた先、常磐線の線路を渡って500mくらい行った高台にあるのが徳川ミュージアムです。徳川家の家財を展示する美術館や博物館は、徳川縁の地各地にいくつかありますが、これもその一つ。市や県などの公営ではなく私営です。なので見学料は一人1,200円とかなり高いです。

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 徳川ミュージアムは光圀公の別荘だった高枕亭跡にあります。

 ちなみに博物館の類いでは珍しいことに、内部の撮影が許可されていました。ただしフラッシュ厳禁です。

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 水戸徳川家に残るいろいろな文化財級のものが展示されています。弘道館から偕楽園あたりまでは当然のように斉昭公一色でしたが、こちらは光圀公押しです。ここにかかっている衣類は光圀公のものだとか。やはりこの時代の人は小さかったんですね。

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 そしてわりと隅っこの法に無造作に展示してあったのが葵の御紋が入った印籠です。どうやら光圀公が使っていた本物だそうですよ。新品みたいに綺麗ですが、そんなに使い倒していたというわけではないのでしょうかね。

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 それからどこかで見たことのある頭巾。これも本物?

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 そして天然木そのままの風情を残した杖。かなり長いです。なんか見たことある...。

 いえ、もちろん時代劇としての水戸黄門はフィクションであり、実際に光圀公は越後の縮緬問屋のふりをして諸国漫遊したわけではない、というのは有名な話ですが、こうしたディテールはわりとちゃんと考証されていたと言うことなのでしょうか。

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 刀剣コーナーもありました。最近静かにブームだそうですね。がぶり寄りで写真を撮りまくってる人(女性)がいました。

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 うーん、刃紋が美しいですね(って言ってみたかっただけで、分かっていません^^;)この世界も嵌まると奥が深そうです。

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 そして光圀公と言えば「大日本史」の編纂を始めたことでも有名です。存命中には完成せず、というか完成まで200年以上かかったとか。この大日本史編纂事業が「尊皇」を中心とした水戸学の始まりでもあり、諸国のいろいろな歴史や風土を調べたということが、諸国漫遊したというフィクションの着眼点になったのだろうと思います。

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 最期に徳川本家と御三家の当主家系図です。水戸家は一番下のラインですが、他と比べるとややこしいことになっています。ふむふむ、とこれだけで時間がつぶせそう。興味があればFlickrに飛んで拡大してみてください。