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酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

御家騒動から下町人情話まで全部入り:桜ほうさら/宮部みゆき

読書 宮部みゆき

桜ほうさら(上) (PHP文芸文庫)

桜ほうさら(上) (PHP文芸文庫)

桜ほうさら(下) (PHP文芸文庫)

桜ほうさら(下) (PHP文芸文庫)

父の汚名をすすごうと上総国から江戸へ出てきた古橋笙之介は、深川の富勘長屋に住むことに。母に疎まれるほど頼りなく、世間知らずの若侍に対し、写本の仕事を世話する貸本屋の治兵衛や、おせっかいだが優しい長屋の人々は、何かと手を差し伸べてくれる。家族と心が通い合わないもどかしさを感じるなか、笙之介は「桜の精」のような少女・和香と出逢い…。しみじみとした人情が心に沁みる、宮部時代小説の真骨頂。

桜ほうさら(上) (PHP文芸文庫) | 宮部 みゆき | 本 | Amazon.co.jp

 本作は約3年前の2013年に発売された宮部みゆきさんの最新時代小説で、昨年末にようやく文庫化されました。一冊当たり400ページ越えの上下巻という構成はかなりの長編です。残念ながら宮部みゆき作品はKindle化されていませんので、久しぶりに本屋さんで購入。読み終えた後の処理を考えなければ、読みやすさという点でやはり紙媒体はとても優れていると思います。

 それはさておき、タイトルの「桜ほうさら」という不思議な言葉は、宮部みゆきさんの造語で、元は甲州弁の「ささらほうさら」という言葉をもじったものだそうです。意味はわからずとも、この「さくらほうさら」あるいは「ささらほうさら」という語感が、この物語全体の雰囲気をよく表している気がします。

 もちろん「桜」は本作において重要なモチーフで、冒頭から川縁に立つ一本桜が登場し、主人公の古橋笙之介はその脇に立つ「桜の精」を目撃するところから物語は始まります。
 
 本作に描かれる、江戸の街に咲く桜の風景と、花見を楽しむ庶民達の暮らしぶり、そして花が散り次第に夏へと向かっていく風情には、現代に生きる私たちが春と桜に感じるそれに通じるものがあって、真冬の寒い時期に読んだにもかかわらず、そのポカポカした空気が伝わってきました。

 そういう意味ではこれからの季節に読むにはぴったりかもしれません。小説にも旬があるってことでしょうか。

 水面には、桜の花びらが散り浮いていた。
 今はまだ、それらのひとつひとつに桜の精が乗り込んで船団、花筏を組み、ヨイヤサアと小さな櫓を揃えて漕ぎ出したーーーというくらいだ。これがあと二日もすれば、桜色の毛氈を敷き詰めたような眺めになると、梨枝が教えてくれた。桜は散り始めると足が速い。

 そう、桜は足が速いですよね。咲いたと思ったらあっという間に散ってしまいます。そして地面や川面を埋め尽くすそのピンク色の花びらもすぐに消えてしまいます。しかしそれはよく考えてみれば、桜の足が速いのか、時間の足が速いのか、どっちなのでしょうか?

 主人公の古橋笙之介は、藩を離れ浪人として江戸の片隅でのんびりと暮らしていながら、あっと今に過ぎ去っていく時に追われ、焦っているように感じました。

 さて、話題が前後しましたが表題の語源となった「ささらほうさら」の意味は「いろいろあって大変だった」ということだそうです。まぁ、小説ですから当然物語中には「いろいろ」なことが次から次へと起こります。

 しかもそこには宮部ワールドの、というより時代小説のあらゆる要素が詰まっているようです。大名家の御家騒動、武家の家族関係、商家の家族関係、貧乏長屋の住人達とそれぞれの人生と人情、飢饉への恐怖、地方の食糧問題、江戸という都市の抱える矛盾、暗号解読と誘拐のミステリー、そして男女の恋。と、本当に盛りだくさんのプロットが縦横無尽に埋め込まれています。

 しかし難解さや無理矢理なところはいっさいなく、全てが自然に、流れるように物語が展開していくのはさすが宮部みゆき作品。特に下巻に入ってからは、物語に没頭して電車を乗り過ごしたりしつつ、一気に最後まで読み切ってしまいました。

 もちろん本作はストーリー展開をただ楽しむための娯楽小説ですが、そこには江戸時代の社会問題、時代考証、あるいは家族とは何か? 血縁とは何か?と言った、色々と考えさせられる問題が含まれており、表面上の面白さだけでなく、奥行きの深さを感じさせます。それら一切合切を、どこか頼りない武家出身の若者、古橋笙之介の軽快な冒険活劇と江戸人情話に落とし込んだ、とても読みやすく、読後感のよい小説でした。

 そして締めの一文がまた気が利いています。季節はいつの間にか秋になっています。

今夜はあの桜も、川縁で秋雨に濡れ、遠い春を夢見ていることだろう。

 古橋笙之介は紅葉した楓の木を眺めながらこんなことを考えます。

 これを読んで私もまた、春一番に吹かれ季節外れの暖かさに目が覚めつつある、近所の桜のことを思い出しました。桜の精が目覚める季節はもうすぐです。楽しみですね。