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酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

きれい事だけではない小さな幸せの物語:酒田さ行ぐさげ/宇江佐真理

酒田さ行ぐさげ 日本橋人情横丁 (実業之日本社文庫)

酒田さ行ぐさげ 日本橋人情横丁 (実業之日本社文庫)

日本橋の廻船問屋の番頭・栄助の前に現れたのは、以前同じ店で働いていた愚図でのろまの権助だった。しかし、権助は庄内酒田の出店の主に出世したと聞いて、驚きとともに嫉妬の情も湧きあがり…。表題作ほか、葬具屋、花屋、奉行所同心、夜逃げした呉服屋など、お江戸日本橋に生きる人びとの悲喜交々の心情を名手が掬い上げる傑作人情小説集。

 宇江佐真理さんによる短編集です。この本には「日本橋人情横丁」という副題が付いています。確か前回読んだ「古手屋喜十為事覚え」のも「人情」という言葉がぴったりくる江戸市井ものでした。ただし今回は収められている全六話の登場人物はすべて異なり、また謎を解決していく「捕物帖」形式にもなっていません。これは本当の意味での「人情物語」に的を絞った短編集です。

 と言う意味では、特徴は何もなくてありふれた時代小説のようでいながら、しかし「どこかで読んだ感」が全くしないのはさすが宇江佐真理さんの作品。登場人物は大店や裏店の商人、町方役人、ご隠居さんに子供、そして奉公人などなど、江戸の市中にいたあらゆる種類、身分の人びとを題材にしています。しかし一貫して物語の舞台は概ね日本橋周辺に置かれています。江戸経済の中心地であり、そこには多くの人がそれぞれの事情を持って暮らしていたわけで、ちょっとしたドラマの宝庫だったことは想像に難くありません。

 しかしどの物語も特に事件が起こるわけではなく、まったりと登場人物達の日常が流れていく感じで、盛り上がりに欠けるのと、落ちが読めないことから、なかなか読み進めるモチベーションを保つのが難しい小説でもありました。もちろん全く何も起こらないわけではありませんが、どれも誰にでも身に覚えがあるような、ちょっとした生活の悩み事の域を出ていません。仕事、商売、お金、家族関係、恋愛問題、友人関係上の悩み事などなど、そんな本人には重大だけど、他人からみたら小さなことばかり。

 そんなまったりしたペースで進む六つの物語は、登場人物達がそれぞれ悩みを抱えながらも、最後は自分の幸せ、それもどこかから転がり込んできたのではなく、自分の足下にありながら、それと気づいていなかった自分の幸運、幸せを見つけ、それに納得して生きていく、という展開を見せ、基本的にどれもハッピーエンドを迎えます。

 そんな中でも私が一番気に入ったのは第一話の「浜町河岸夕景」です。棺桶にかける布を作る「天蓋屋」と言う商売があった、というのはこの話を読んで知った新たな江戸豆知識です。その天蓋屋を営む両親の元で暮らすおすぎの物語なのですが、まだ子供のおすぎは、すでに自分の生活に不満を持ち、将来に漠然と諦めを感じています。

 そしてそんなおすぎの心の支えになっていた、近所の煮売り屋の夫婦と小さな男の子の家族は、おすぎにとって理想の家庭に見えました。しかしそれも所詮は青く見えていただけの隣の芝生だったことが分かります。煮売り屋一家の小さな男の子は、別れ際におすぎにこう言います。

張り出たおでこと丸い鼻がご愛嬌の風太ともう会えないのかと考えると、おすぎは涙が止まらなかった。
「ねえちゃんの泣いた面なんざ、見たかねぇ。おいら行くぜ」

 この別れの言葉から、わずか6ページでこの物語は素晴らしい結末を迎えます。読んでいるこっちが、思わずにんまりしてしまうような、素晴らしいオチです。かといって読んでいる途中で想像もしなかったようなどんでん返しというわけでもありません。そういう展開すべてが柔らかく、優しい感じが溢れていて、安心して読めるこれぞ正統派人情小説です。

 しかし、最後に収められている第六話の表題作だけはちょっと違った感じです。いえ、やはり主人公である栄助は、自分が気づいていなかった幸せを次第に発見していく物語なのですが、結末は必ずしもハッピーエンドではありません。栄助にはもはや二度と消すことの出来ない心の傷を背負ってしまいます。

言えなかった言葉は栄助の胸に澱のように溜まっているが、それを吐き出す術を栄助は知らなかった。忘れられないのは権助が江戸を発つ時、栄助に向けて、酒田さ行ぐさげ、と怒鳴るように言ったことだった。その次に続く言葉を栄助は今でも考えあぐねている。

 幸せになるべきは栄助だったのか? どうにも腑に落ちない、もやもやしたものが残る物語でした。それがまた、それぞれの人生と、それが集まって出来ている人の世は、必ずしも道理が通っているわけではない、ということを思い起こさせます。そう、きれい事ばかりではなく、人の醜さと美しさは表裏一体、紙一重なんだということなのでしょう。