酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

仲蔵狂乱:松井今朝子

仲蔵狂乱 (講談社文庫)

仲蔵狂乱 (講談社文庫)

 

  松井今朝子さん作の歌舞伎を題材にした時代小説です。以前読んだ「非道、行ずべからず」は歌舞伎小屋を舞台にしたミステリー小説でしたが、今回読んだ「仲蔵狂乱」はミステリー仕立てではなく、中村仲蔵という実在した歌舞伎役者の生涯を描いた人物小説です。この小説を読んでいると、いかに松井今朝子さんが歌舞伎好きなのかが伝わってきます。いや、単に好きなだけではなくその知識の深さは並大抵ではありません。多分。

 私は歌舞伎に関しては舞台を見たこともないし、興味を持ったこともない全くのずぶの素人ですが、そんなまっさらな素人読者にもとても分かりやすく、そして歌舞伎の世界の奥深さ、面白さをひしひしと伝えてくる文章は、単に好きなだけでも書けないし、あるいは知識があるだけでもやっぱり書けないものではないかと思います。

 有名な歌舞伎役者と言えば、今の時代にも中村勘三郎、市川團十郎、松本幸四郎などなど、江戸時代から何代にもわたって名前が継承されてきています。彼らはそれぞれ一門を形成し、まるで武家のように血筋を守り世襲を繰り返し、時には優秀な弟子や他家との縁組みを繰り返すなどして、一家の名前を守ってきました。そんな中にあって中村仲蔵は中村家一門にあって特に異端な役者でした。

 彼の歌舞伎役者としての人生は、本文の中で仲蔵の兄弟弟子であった錦次が口にする、以下のような言葉が全てを表しています。

「成田屋(市川團十郎)は何といっても生まれが生まれだ。わたしはここまで這い上がるのにさんざん名を改えて来た。そこへいくとお前さんは大したものだ。仲蔵という芸名一本で、七両取りの稲荷町から千両役者まで上り詰めた。この後もお前さんのような役者は。もう二度と出ねえよ。」

 松井今朝子さんは、仲蔵の人生に何かを感じてこの小説を書いたに違いありません。その恵まれない生い立ちから、役者として身を立てていくまでの苦労、役者の功名心と虚栄心、ライバル達への嫉妬、大名跡を継承することへの未練。座頭を張れるまでになって、頂点から転落することへの恐怖、そして晩年に至るまで、仲蔵の歌舞伎役者としての功績への憧憬と賞賛とともに、その裏にあったに違いない仲蔵の人間性への共感が強く感じられます。

 歌舞伎を知らない読者である私にも、とても素直に心地よく、仲蔵の生き様が心にに伝わってくる物語です。いや、私はその世界を知らないながらも、意外に芸術家、特に役者の"破壊的な人生"物語が好きなのかも知れません。「非道、行ずべからず」もそうでしたし、過去読んだ本の中でも「虚空遍歴」はとても強く印象に残っています。

 ところで、どこで読んだのか忘れましたが、中世の芸能というのは、世界的に通常は貴族等の支配階級の庇護のもとに発展したものがほとんどですが、日本の歌舞伎だけは町人(=被支配階級)が支えて育てた芸能として、他に例を見ない成り立ちを持つものだそうです。現代では考えられない厳しい封建社会にあって、時には武士社会の風刺が上演されたりもしました。

 それこそ現代で言えば武力テロ事件であった赤穂浪士の討ち入りを、忠臣蔵として幕府のお膝元で上演し、町人達に人気を博したなんてのは、他国では考えられないことだそうです。江戸の人々は、いや日本人は世界的に見ても"粋"だったんだなぁ、と思ってしまいます。

 お勧め度:★★★★★ (松井今朝子さんの小説の中では、吉原手引草と同じくらい気に入りました)