酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

涙堂 琴女癸酉日記:宇江佐真理

涙堂 琴女癸酉日記 (講談社文庫)

涙堂 琴女癸酉日記 (講談社文庫)

 

 江戸時代の風俗を描いた時代小説としては何とも欲張りで豪華な設定の小説です。八丁堀の町方の暮らし、謎の事件を追いかける捕り物、日本橋の繁華街、浮世絵を中心とした当時の風俗、医師と医療の事情、火事、吉原... おおよそ思いつく江戸時代の小説の種がこれでもかというほどに織り交ぜられています。
 しかしそこはさすがの宇江佐真理さん、強引さや不自然なところもなくとても自然です。むしろ、そんな豪華さよりも主人公の高岡琴の心うちがじんわりと共感を呼ぶ、宇江佐さんらしいちょっと悲しくてでも基本的に爽やかさを感じさせる物語です。

 主人公の琴は八丁堀の同心の妻であり長らく一家の奥を預かる主婦でしたが、長男が家を引き継ぎ、台所も嫁に明け渡したばかりの隠居の身。彼女の三男坊の賀太郎は早々に武士の生活を捨てて歌川派の浮世絵師として暮らしています。思いがけず夫を失い、隠居の身となった琴は賀太郎の誘いに気易く応じて、八丁堀を飛び出し日本橋通油町の賀太郎の住む町屋で暮らすこととなりました。

 町屋の暮らしが珍しく、近所に暮らす町人の幼なじみたちの家に遊びに行く毎日の琴の生活は自由気ままです。いや、賀太郎にうまく利用されて家事仕事を押しつけられた感もあるのですが、ともかく八丁堀の暮らしよりは開放感があるのは事実。そんな琴が毎日接する通油町界隈の人々の生活や見聞きしたことを短く日記にまとめていきます。それがタイトルにもなっている「琴女癸酉日記」の正体です。

 ストーリーの背後には町方の同心であった琴の夫の死にまつわるミステリーが流れ、その上に琴の目線を通して見聞きする様々な江戸の風俗が折り重なります。物語の要所要所に差し挟まれている琴の日記にあまりにもリアリティがあるので、もしかしてこの高岡琴という人物は実在し、その日記が遺されているのではないか?と思ったのですが、いろいろ調べてもそれらしい事実は見つからず、やはり基本的にはフィクションなのだと思われます。

 しかし、物語の背景にも取り上げられ彼女の日記にも記されていく江戸で起こった様々な流行や噂話というのは、実際に起きたことのようです。春慶寺の白蛇騒動や芝居を影響を受けた相対死(男女心中)の流行(後に禁止令が出される)は他の時代小説にも取り上げられる有名な話ですが、近星とぼた餅、無意味な歌と踊りの流行の数々、魑魅魍魎や幽霊などの不思議な噂と、その背景にあったものなどなど... 人々の口づてに広がる噂話というのは、現代ではテレビやネットなどで速度と範囲が広がっただけで、内容は現代のどうでもいいような噂や、意味不明な流行とあまり変わりがないことに気づかされます。

 さて、高岡琴という主人公にはなにか特別すごいところがあるわけではありません。武家に育った女性らしい強さと厳格さを持った一方で、そうはいっても町方の役人の家であったため、町人の生活にも通じる世間慣れした部分がバランス良く混ざった女性です。しかし、宇江佐さんの各女性は皆そうですが、これがなぜか可愛くて格好いいのです。敵をやっつけるわけではないけれど、この物語の中ではヒロインといってもいいでしょう。

 そして彼女は物語の最後の方でこんな日記を記します。

・・・涙堂とはいかなる建物にあるや。人の涙を満々と湛えた湖に浮かぶ東屋のごときものか。その中に供えるものは、また涙なるか。しかし、涙堂、この世にあるを知らぬ。人の心の中にひそかに建立したるものにあらぬか。涙堂の構え、大きなる人こそ、その悲しみも深しと思ゆ。妾の涙堂、中ぐらい。

 惚れてしまうこと間違いなしです(A^^;;

 おすすめ度:★★★★☆