はぐれの刺客

投稿者: | 2013年1月29日

はぐれの刺客 (光文社時代小説文庫)

はぐれの刺客 (光文社時代小説文庫)

大垣藩士の次男、甘利新蔵は部屋住みの身。剣の腕は藩随一だが、師範にうとまれ剣術での出世も難しく、鬱屈した日々を送っていた。ある日、商人宅に押し入った賊を斬殺した新蔵は出世の期待を抱くが、あまりの残忍さに蟄居を命じられてしまう。絶望の果てに脱藩した新蔵を待ちうける運命とは…。

 昨年の11月頃、海外出張に出かけるときに成田空港で買った本です。海外に出かけるときは機内や空港での待ち時間、あるいは時差ボケで眠れないときのために文庫本は必携なのですが、途中で読み切ってしまうことを恐れて、いつも空港で一冊程度買い足してしまいます。そういう意味ではどうしても読みたくて買ったものではなく、作家名と題名と表紙の雰囲気で何となく手にした本です。結局そのときは旅先では読むことはなく、そのままになっていたものを年明けになってようやく読むことが出来ました。

 この小説はもともとは1999年に発表されたもので、単行本に続き徳間文庫で2002年に文庫化されていましたが、昨年末に光文社時代小説文庫で再版になったものです。澤田ふじ子さんの小説と言えば、「土御門家・陰陽事件簿」シリーズを読んだことがありますので、なので相性も折り紙付きで安心して読めるはず… と思っていたのですが、読み始めた最初のうちはどうにも、ここで描かれる人物像と世界観がしっくりきませんでした。

 古い作品とは言え、澤田ふじ子さんの小説家としてのキャリアは40年に及ぶわけで、たかだか12年くらいの前の作品ともなれば十分円熟期にあるはずです。この第一印象は単に私の好み、相性の問題かと思われます。

 帯に書いてあった「もはや先になんの望みもございませぬ!」というコピーは、題名の「刺客」という言葉と合わせて考えれば、単に武士としての潔さの表れとも思えるのですが、実際はこの小説の主人公、甘利新蔵の絶望はもっと根源的で深く、心の底から「なにも望みはない」と言っているかのようです。自分が置かれた状況の理不尽に諦めを通り越して怒りをたぎらせる新蔵。でもその絶望と怒りにもどこか納得がいきません。

 武家に生まれた次男坊という立場の不遇は、甘利新蔵だけが受けた特別な悪運ではなく、当時の武家社会システムが生み出した歪んだ社会常識でした。部屋住みの苦しみは、可哀想ではあるのですが当時の社会では特別なものではなかったと言うことです。でも、彼はその「良くある」不公平さに腹を立て、「良くある」世の中の理不尽さを有り得るものとして受け入れず、当時の武家社会というでどうにもならない強大なものを敵とし、やり込めようとします。それも世の中のために… という青年らしい正義感からではなく、個人的な怨念を理由に。

 気持ちは分かるけど、そんな無茶があるかいな?と思ってしまうのです。現代の物差しで測ればこの怒りは理解できるけど、ここは江戸時代の武士の家なんでしょ?… という時代小説的に倒錯した矛盾を感じてしまうのです。

 しかし物語は進み、後半に行くに従って様相が変わってきました。ようやく時代小説的わかりやすさが出てきたというべきか。部屋住みだからと言うのでは無く、甘利新蔵という一人の人間であるがゆえに迎える、特別な運命の歯車が回り始めます。そして将来に望みが抱けるかも?と期待がもたれ始めたところで訪れる、本当の不運。正義の刺客となった甘利新蔵は、結局は武家社会が差し向けた刺客の前に屈してしまうのでしょうか?

 こうしていつの間にか、小説の世界の中にどっぷりと引きずり込まれていました。なので、当初はペースが上がらず読み終わるまでに時間がかかりそうだな… と思っていたこの本も終わってみれば結構良いペースで読み切ることができました。

 でも読後感として心に残るかと言われれば多分ノーでしょう。面白かったか?と問われても微妙な気がします。むしろ逆の意味で忘れないかもしれません。後半にかけてのストーリーの展開に引き込まれたと言っても、前半で受けた甘利新蔵の怒りの正当性に対するモヤモヤが決定的に残り、ヒーローとしても、アンチヒーローとしても素直に受け入れることが出来なかったせいと思われます。

 たまにはこういうのも良いかもしれません。自分の好みの方向性を確認するという意味で。(私も偉そうなことを言うようになったもんです ^^;)

 【お気に入り度:★★☆☆☆】