酔人日月抄

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バカとインテリは紙一重?:超・反知性主義入門/小田嶋隆

超・反知性主義入門

超・反知性主義入門

 他人の足を引っ張って、何事かを為した気になる人々が、世の中を席巻しつつある…。安倍政権の政策から教育改革、甲子園、ニッポン万歳コンテンツにリニアまで、最近のニュースやネットの流行を題材に、日本流の「反知性主義」をあぶり出してきた「日経ビジネスオンライン」好評連載中のコラムが、大幅な加筆編集を加えて本になりました。
 リンチまがいの炎上騒動、他人の行動を「自己責任」と切り捨てる態度、「本当のことなんだから仕方ない」という開き直り。どれにも腹が立つけれど、どう怒ればいいのか分からない。日本に漂う変な空気に辟易としている方に、こうした人々の行動原理が、最近のニュースの実例付きで、すぱっと分かります。

Amazon.co.jp: 超・反知性主義入門 電子書籍: 小田嶋 隆: Kindleストア

 タイトルも含めて何もかもやや煽り気味なので気が引けるのですが、やはり印象深い本だったので記録しておこうと思います。

ア・ピース・オブ・警句

 小田嶋隆氏が日経ビジネスオンラインに毎週金曜日に連載しているコラム「ア・ピース・オブ・警句」からのまとめ本です。

 私はこのWEBコラムを毎週楽しみに読んでいます。日々のニュースに触れてなんとなくモヤモヤと感じていたものが、綺麗に整理された明確な言葉で表現されているために、読んでいてスッキリするのです。

 以前に同様のシリーズで「場末の文体論」という本を読みました。今回収録されているのは2013年頃から比較的最近のコラムばかり。なのでどれもWEBで読んだ記憶がある文章ばかりです。しかしそれぞれ再編集され、最初と最後にはそのコラムが書かれた背景とその後が短い文章で付け加えられています。

反知性主義とは?

 さて今回の本のタイトルには「反知性主義」という流行言葉が使われています。いえ最近私でさえ目にするようになったと言うだけで、この言葉自体は古くからあったようです。しかしその意味するところはやや難解です。Wikipediaを読むだけではよく分かりません。

 私が俄勉強した範囲によると、本来「反エリート主義」を意味するこの言葉は、政治における民主主義の、ビジネスにおけるベンチャー精神の基本となる考え方でもあり、決してネガティブな意味を持ってたわけではありません。キリスト教的な知性主義に縛られていた欧州を脱出し、新天地を求めた人々によって作られた自由の国、アメリカ建国の精神は、反知性主義そのものであったりするわけです。(と、ここまでは受け売りです)

 しかし最近のこの言葉の使われ方は多様化し、異なる意味合いを帯びてきているように思います。使う人によって「知性」と「反知性」の位置づけが異なり、場合によっては同じ事柄に対して全く逆の定義がされていたりすることが、この言葉のとらえ方をより難解にしているようです。そして果ては単に「バカ」の言い換えとして使われている例も少なくありません。

 小田嶋隆氏もこの本の前書きで「反知性主義」という言葉のもつ本来の意味と誤用の間の混乱について書いています。そしてこう述べています。

反知性主義は高校生の冒険主義と同じものではない。が、知性と、反知性は、そんなに遠いものではない。いずれも、おそらく、冒険主義と同じ成分でできている。

 うむ、いきなり煙に巻かれたようです。

 本書は計27本のコラムを「生贄指向」「絆指向」「本音指向」「非情指向」「功利指向」という五つに分類して収録しています。しかし私にはこの本に収められたコラムが、愚衆迎合による「反知性主義」を揶揄しているのか、あるいは政治や経済、スポーツや芸能界のエリート達の「知性主義」を批判しているのか、いまだによく分かっていません。

 さて、ここでこの本に収録されているコラムの中で、オリジナルを読んだときから私的に一番心に刺さっている一編を紹介しておきます。

蛮勇と勇気と自己責任

 本書の「非情指向」に収録されているコラムで、オリジナルは2015年2月に書かれたものです。日経ビジネスオンライン上で今でも読むことが出来ます。

 このWEB版のオリジナルに対し、本書に収録されているバージョンは多少編集され短くなっているとともに、タイトルも「蛮勇と勇気と自己責任」と改められています。私としてはオリジナルのタイトルの方がしっくりくると思います。

 このコラムは日本人2人がISに拉致監禁され、その後殺害されるに至った事件を取り上げています。当時私は、この事件に関して、主にネット上で巻き起こった多くの人々の意見の応酬を見ていて、半ば嫌悪感とも言っていいようなモヤモヤした気持ちを持て余していました。小田嶋隆氏のこのコラムではそのモヤモヤの中身を整理し整然と言語化してくれていました。これを読んで妙にホッとしたものです。

・・・ネット社会の出現によって、そうした露悪的で扇情的な「本音」が万人に向けて公開される場が確保されてみると、それらの膨大な量の「本音」は、「これまでおもてだって語られていなかっただけで、本当は誰もがこころのうちにあたためていた言葉」であることを認められ、匿名のネット市民の間の共有財産として、無視できない影響力を発揮するようになる。かくして「本音」は「いけ好かない偽善者どもの眉をひそめさせる痛快至極な真実」として、確固たる市民権を獲得するに至っている。

 なるほど、赤の他人の「本音」がSNS等の普及により可視化されてきたのだと。

 さらにそういった「本音」がシェアされ、それが多数の「いいね!」を集めることで一種の民意を形成するなか、その奥底にあるもの、あるいは行き着く先を小田嶋氏は以下のように分析しています。ちょっと長いですが引用します。

 私がいつも不気味に感じるのは、その種のブラックジョークの背景に、「世の中の役に立たない老人や障害者や貧乏人や弱者や不心得者や蛮勇冒険者は、淘汰された方がお国のためになる」「働けなくなった人間は死んだ方が良い」「公的な仕事や大儀のために命を捨てようとしている人間は救助に値するけど、私的な欲望や個人的な好奇心のために命を粗末にしている人間はどんどん死んでくれてかまわない」といった感じの社会的ダーウィニズムに似た優生思想が介在していることだ。
 残酷で不謹慎な発言をかましている人々は、一面、頑強なモラリストであったりする。
 で、その彼らの奉じている「モラル」はといえば、「お国」や「公(おおやけ)」や「社会の進歩」や「効率」を絶対善とし、「私(わたくし)」や「個人」や「自由」や「人権」を混乱要因として排除しにかかる封建日本由来の圧政思想そのままだったりする。

 そう、私の感じたモヤモヤした気持ち悪さの核心はここだと思いました。

 実際に、単なる人々の「本音」だっただけの「自己責任論」は、ネットでシェアされ「いいね!」を集めるにつれエスカレートし、そのうち「被害者は国にこれ以上の迷惑をかけないために自ら命を絶つべき」という極論を誘発しました。そしてそれが「さらに痛快至極な真実」として多くの「いいね!」を集める... というサイクルがぐるぐる回ることで、人々の「本音」はより先鋭化し、視野が狭窄していったのだと思います。これはとても不気味なことだと思います。

 さて、この場合「知性」と「反知性」はどちらの側なのでしょうか? 「建前」というきれい事を唱えるほうが知性主義で、それに対し「本音」という現実をぶつけシニカルに構える側が反知性主義なのか? あるいは社会に効率と秩序をもとめダーウィニズム的な優生思想を持つ方が知性主義であり、それに言いしれぬ嫌悪を感じヒステリックになる方が反知性主義なのか?

 どっちにしても私は「建前」や「理想」や「きれいごと」をもっと大切にしていきたいと、このコラムを読んで思いました。

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