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酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

不浄役人の意地と粋の華:赤猫異聞/浅田次郎

赤猫異聞 (新潮文庫)

赤猫異聞 (新潮文庫)

時は、明治元年暮。火の手の迫る伝馬町牢屋敷から解き放ちとなった訳ありの重罪人たち―博奕打ちの信州無宿繁松、旗本の倅岩瀬七之丞、夜鷹の元締め白魚のお仙。牢屋同心の「三人のうち一人でも戻らなければ戻った者も死罪、三人とも戻れば全員が無罪」との言葉を胸に、自由の身となった三人の向う先には…。幕末から明治へ、激動の時代をいかに生きるかを描いた、傑作時代長編。

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 浅田次郎さんの手による久しぶりの幕末期小説文庫新刊です。舞台は明治元年のことですので正しくは幕末期ではなく、明治初期と言った方が良いでしょうか。しかし当然ながら、元号が慶応から明治と変わった瞬間に日本は近代化したわけではありません。明治元年、東京と名を変えたばかりの大都市の実体は、ほぼそのまま江戸だったと言って差し支えないでしょう。

 薩長による新政府はまだ生まれたばかりで、行政機構はほとんど機能していません。そんな中、江戸の治安を260年にわたって預かっていた八丁堀の役人達は、上司が誰なのかも分からぬまま、それまでの仕事をやり続け、それまで通り大都市の治安を守り続けます。長きにわたって続いてきた制度や習慣というのは、良きにつけ悪きに付け、そう簡単には消滅しません。

 そんな混沌とした状態の明治元年暮れ、江戸最後の大火災に遭遇し伝馬町牢屋敷で行われた「解き放ち」を題材にした物語がこの「赤猫異聞」です。その冒頭にこんな一分があります。

正直のところを申せば、解き放ちはいかにも芝居がかった、伝馬町牢屋敷の華のごときものでございました。火事と喧嘩が江戸の華ならば、その華の中の華でございますな。

 芝居がかっていたと言う「解き放ち」を、(いい意味で)芝居がかった語り口が特徴の浅田次郎さんが書くとどうなるのか? 江戸から明治への移行期とということもあって「天切り松闇語り」のような物語ではないかと期待して読み始めました。

 ちなみに、この物語はすべてフィクションだそうです。当然ここに登場する人物達は史実として記録があるわけでもなく、もっと言えば明治元年に大火があったことからしてフィクションだそうです。ただし、当時の時代背景、伝馬町牢屋敷の仕組みなどはきっちりと考証されており、嘘っぽさはみじんもなく、とてもリアリティ(って言うのは変ですが)が感じられます。

 物語は昔語りの形式で進んでいきます。明治も中頃のこと、世の中がだいぶ様変わりした後に、新政府の役人が明治元年の大火のことを聞き取り調査をしている、という設定になっており、当時の関係者の証言が証言者の一人称のみで語られていきます。

 一つの出来事を多くの人の目線、それも少しずつ違った視点から、繰り返し繰り返しなぞっていくことで、実際の事件の全貌が次第に明らかになっていく流れは、サスペンスのようでもありぐいぐいと引き込まれていきます。

 それにしても「粋」と「情」を語らせたら、浅田次郎さんの右に出る人はいないんじゃないかと思えてきます。現代物は今ひとつ好きになれないのですが、江戸から明治期の時代物は、その大げさな芝居がかった語り口も含めて、なんの違和感もなく全面的に受け入れられてしまいます。

 今作では、中でも夜鷹の元締め、白魚のお仙のい証言は本当に格好良くて、鳥肌が立ってきます。こんな人がいたら怖くて近寄れないだろうけど、格好良すぎて憧れるだろうなぁ、と。

 なので私個人的独断では、今作のクライマックスはわりと序盤に訪れたと思っています。それはお仙の証言の中に出てきます。

出刃をはたき落とされて、ぐいと抱き締められたとき、やっぱりそうじゃなかったんだ、役人達の定め事は本心だったのだ、と思い知ったのです。
そういうときの女の勘の働きは、たしかでございますよ。男心の嘘とまことは、体が触れたとたんにわかるものです。

 次々に人を変えて淡々と語られていく、明治元年の解き放ちの顛末。それと共に話は各人のその後の人生ドラマにも繋がっていきます。小説の中の空想の世界のことなのに、この人はその後どうなったんだろう? この人は?? と気になっていきます。そしてそれは作者の誘導であることが次第にわかってきます。

 当初はこれらの話がどういう落ちを目指しているのかわからず、一体誰が主人公なのかもわからないまま進んでいきますが、中盤あたりでおぼろげながら種明かしが見えてくるようです。そうか、そういうことなのか? と。

 そして全貌は最後の証言者によって明かされます。そこにはもちろん、何となく結末が見えたと思っていた私なんかには想像も付かなかったようなどんでん返しが待っていました。

 解き放った江戸時代の役人も、解き放たれた江戸時代の犯罪者も、明治への大変革を乗り越えて新しい時代を切り開いていきました。しかし彼ら彼女らの足下には、明治を生きることを許されず、江戸時代の残滓と共に消えていった人もいます。もちろん、明治を生きた人達もそのことは十分にわかった上のこと。

 これはすべてがフィクションでありながら、明治維新の真実の一面を描いた物語だと思います。浅田次郎さんが敬愛するという明治時代の空気感がようやくわかってきた気がします。