酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

江戸の自治機構が学べるコメディ時代小説:こいわすれ/畠中恵

こいわすれ (文春文庫)

こいわすれ (文春文庫)

江戸町名主の跡取り息子・麻之助が、幼なじみの色男・清十郎、堅物・吉五郎とともに、さまざまな謎や揉め事の解決に立ち向かう好評シリーズ第三弾!妻のお寿ずから懐妊を知らされ、驚きつつ大喜びする麻之助には、思いもよらぬ運命が待ち受けており―江戸情緒とともに、切ない幕切れが心にしみる一冊。

 「しゃばけ」シリーズで人気の畠中恵さんによる、もうひとつのコメディ時代小説シリーズです。こちらには「妖」たちは登場せず、ファンタジー要素はないのですが、裕福でお気楽な若者が主人公の町人物という点では、どことなく雰囲気が似ています。主人公の高橋麻之助は町名主の跡取りです。「町名主」とは、江戸という大都市を支えた統治機構の末端に位置する仕組みです。八丁堀の同心やその配下にあたる岡っ引きを扱った捕物帖は数知れずありますが、そんな奉行所に上げるまでもない、そこらの小さな事件、いざこざを調停する役割を担っていました。

 本文ではこんな風に説明されています。

さて町名主というのは、町役人の一人であった。大家の仲裁では収まらず、さりとて町奉行に持ち込まれるほど大きくない揉め事があると、屋敷の玄関で裁定をせねばならない立場なのだ。

 奉行所による警察機構に始まり、名主や大家に至るまで、宵越しの金を持たない庶民たちが暮らす町の管理や、弱者に対する福祉機能、セーフティネットなど、当時世界でも有数の人口を持った江戸の町の都市運営は、非常に優れたものがたくさんありました。そういったことは時代小説を読む中で少しずつ知っていくことが出来るのですが、なかでも「町名主」が登場する場面はあまり多くありません。このシリーズは、コメディ調で基本的に娯楽小説でありながらも、そういった時代考証、当時の江戸の雰囲気が良く出ている、とても面白い小説です。

 さて、今作「こいわすれ」はシリーズの第三巻。まだまだシリーズは始まったばかりです。しかしそうとは思えないほど人間関係は複雑で、色々な縦糸のストーリーが絡み合っています。基本的には独立した一つ一つの事件を扱う六話の短編からなっています。どれもこれも、強盗や人殺しと言った凶悪な事件ではなく、町名主が扱う程度の小さな町内のトラブルばかり。かえってそこには江戸に暮らす人びとの生活が感じられます。

 カッパ出没の噂、絵と歌の番付争い、逢うことの出来ない待ち人のミステリー、夫婦の離婚仲裁、宝くじが狂わせる人生、破談になった縁談... などなど、人が暮らしていればそこここで起こる身近な事件が登場します。それだけに安心して読めるし、時代は違っていてもそこは人のすること、何となく実感がわくような揉め事ばかりです。

 例えば...

男女の争いごとは、高天原の神が、海の中に塩で日の本を作って以来、それはしょっちゅう起こっている。江戸の町内でも日々勃発するから、大家が始末をしかねると、その争いはふて腐れた当人たちと共に、町名主の所へ持ち込まれてくるのだ。

 そうです、いつの時代も男と女の問題はありました。町人文化華やかな江戸時代の庶民は、一般に思われている以上に先進的で自由な生活をしていたようです。

 さて、そんな物語の背景だけでなく魅力的なのが登場人物たち。主人公の高橋麻之助をはじめ、幼なじみで悪友の二人もかなり個性的です。畠中恵さんらしいおちゃらけていてかつ魅力的な若者が織りなす掛け合いは、ほとんどコントのようです。そこで町名主たる高橋家に持ち込まれる事件も、どことなく滑稽な展開をみせるものばかり。

 ですが... そう思って安心して読んでいたら、思わぬ展開にびっくりしてしまいました。まだシリーズとして第三巻だというのにこんな展開になるなんて...。
 
 思わぬ展開に遭遇し、大丈夫じゃないはずの麻之助にある少女がこう言います。

「あのね、大丈夫って言い続けなくても、いいと思うの」
「でも麻之助さんは、一人で大丈夫だって、言い続けてるんですね」

 お気楽な麻之助のお気楽な生活の中に突然訪れる悲劇。コメディ調でここまできて、悲劇を経てもなおコメディ調で進んでいく物語にやや面食らいます。いったい麻之助は大丈夫なのか? 麻之助が悲しくて苦しい胸の内を明かしてくれないと、読者たる私もどうしていいのか分からないわけで、小さな文庫本の中に引きずり込まれて抜け出せなくなってしまいます。

 その結果、最後の一話にして表題作ともなっている「こいわすれ」は、妙な行き詰まる展開を見せていきます。そして最後に堰を切ったように麻之助と共に涙を流すことになるのです。

 ということで、意外な展開を見せた今作、グッと奥行きが広がったこのシリーズからはますます目が離せなくなってきました。第四巻が楽しみです。麻之助がんばれ!と応援しなくては!