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酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

終戦の日を前に特攻隊について思いを馳せる:永遠の0/百田尚樹

読書

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。

Amazon.co.jp: 永遠の0 (講談社文庫): 百田 尚樹: 本

 何か深い思いがあってこの本を手にしたわけではありません。友人に是非読んでみろと勧められて、なかば押し貸しのようにして手にした本です。確かに本屋さんでも平積みされてよく見かける本。その分厚さにひるみつつ、タイトルの印象から勝手に現代物のミステリーか何かかと思っていました。しかし読みはじめてすぐに私の勝手な思い込みは間違いであることに気づきました。

 この本は零戦パイロットたちの証言集です。タイトルにある「0(ゼロ)」とは零戦のことを表していたのです。おかしなもので、想像とはかけ離れたその内容に、そういうことだったのか!と、気づいたとたんにぐいぐいと引き込まれていきました。折しもちょうどまもなく68年目の終戦記念日を迎えるところ。また、それに合わせるかのように公開されたスタジオジブリの最新作は、かの戦争、そして零戦の主任設計者を扱った物語と聞いています(スミマセン、私自身はまだ見てないのでどんな内容かは知りません)。

 いつもは通勤電車の中のわずかな時間しか読書をしないのですが、これは何とかして8月15日前に読み終わらねばと、少しペースを上げて読み切りました。しかもちょうど、この小説のクライマックスは、原爆が広島と長崎の落とされた後、そして終戦を迎えるまでのわずかな期間に訪れるのです。そう、読むならちょうど「今でしょ!」なのです。

 先にこの本は「証言集」であると書きましたが、正確な意味ではここに出てくる人々とその語る内容はフィクションです。ただし巻末に列記された数々の参考文献からも分かるように、零戦とはどんな飛行機だったのか? そのパイロットたちはどう戦っていたのか? そして真珠湾に始まりミッドウィー、ガダルカナル、ラバウル、レイテを経て最後の沖縄戦にいたるまで、帝国海軍はどのような戦歴をたどったのか? そして最後に特攻はどのように行われ、特攻隊員たちはどうやって出征し、死へと飛び立っていったのか? といった重要な出来事の背景は、ドキュメンタリーとして読めるものだと思います。

 しかしこの小説は零戦のパイロットをヒーローとして扱い、特攻という結末で閉じる悲劇の物語というわけではありません。いえ、そういう面は少しはあるとは思いますが、一方で戦争で命を落とした数々の兵士たちに対し深い同情と哀悼の気持ちこそあれ、決して彼らの死を手放しに美化するものではありません。そうではなく、彼らを使い捨ての駒としてして、数々の無謀であり得ない作戦を遂行しようとした当時の日本軍の組織としての欠陥と狂気を鋭く批判するものです。

 多くの証言者の口を通して、以下に羅列したように一見すると矛盾した見方が次々に出てきます。しかしどれも一貫しているのは、最前線の兵士、彼らにはそれしか選択肢がなかったと言うことです。彼らが如何にして死に追いやられたか。決して国のために殉職する名誉に喜びを見いだしていた狂信者ではなかったはずです。「その気持ちが分かる」と簡単に言ってはいけないような気もしますが、これだけの言葉を聞かされると「分かるような気がしてくる」としか言いようがありません。

これが戦争なのです。アメリカの兵士たちが祖国の勝利を信じて命を懸けて戦ったように、私たちも命を懸けていたのです。たとえ自分が死んでも、祖国と家族が守れるなら、その死は無意味ではない。そう信じて戦ったのです。<中略> そう思うことができなければ、どうして特攻で死ねますか。自分の死は無意味で無価値と思って死んでいけますか。死んでいった友に、お前の死は犬死にだったとは死んでも言えません。
しかし、それでも私は特攻を否定します。断固否定します。

私たちの訓練は零戦で急降下することだけだった。これは特攻の訓練だ。爆弾を抱いて敵艦目がけて突っ込む、死ぬための訓練だった。それでも私たちは真剣に訓練に取り組んだ。
なぜ? 人間とはそういうものだろう?

しかしな、敢えて繰り返す。
奴らの死はまったくの無駄だった。特攻というのは軍のメンツのための作戦だ。沖縄戦の時には、既に海軍には米軍と戦う艦船はなきに等しかった。本来なら、もう戦えないと双手を挙げるべきだったのに、それができなかった。なぜならまだ飛行機が残っていたからだ。

馬鹿者!あれらの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか。

我々が狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ。米空母は我が国土を空襲し、一般市民を無差別に銃爆撃した。そんな彼らが無辜の民だというのか。

 またよく言われるように、零戦は非常に優れた奇跡のような戦闘機だったと、この小説にも書かれています。開戦直後は文字通り無敵で、そのあまりの強さが海軍司令部に油断を生んだこともよく言われていることです。しかしその素晴らしい零戦には決定的な欠点があったと宮部久蔵は次のように指摘します。

八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断できない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるか分からない戦場で八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか?

 零戦の特徴は高い運動能力と航続距離の長さです。しかし特にその航続距離の長さから、多くの無謀な作戦がとられました。搭乗員にはただひたすらに精神論を要求して。人間が使うことを忘れ、スペックだけを追い求めた化け物のような機械を作る... いまだに日本人が得意とするところかもしれません。その代償はいつか自らに跳ね返ってきます。
 もちろんそのスペックを要求したのは海軍であり、技術者が勝手に考えて作ったものではありません。しかし、真面目な日本の設計者はその後、軍の要請に従って、悪名高い非人道兵器「回天」や「桜花」を生み出しました。彼らはどんな気持ちで、それら搭乗員が生きて帰ることができない特攻兵器の設計図を引いていたのでしょうか?彼らも犠牲者だったのかもしれませんが、それに乗ることで死が約束された搭乗員たちの"犠牲"とは、相容れることはありません。

零戦は、長く戦いすぎました。零戦はかつては無敵の戦士でしたが、いまや老兵です。

 老兵となった零戦の最後の任務は特攻でした。それとて重い爆弾を抱えて九州から沖縄まで楽に飛んでいける性能を持っているが故に編み出されたのであり、海軍上層部の無能なエリートたちが考えた非人間的で最低最悪の作戦です。東京裁判のことはさておき、日本人は自らの手で、自らの法で彼らこそ戦争犯罪で罰するべきではなかったかと思います。


 もちろんこの本に書かれている戦争観を鵜呑みにするのもどうかとは思います。ただ少なくとも私はこの本を読んで、自分自身がほとんどと言っていいほど、第二次世界大戦について知らないということに気がつきました。私の歴史的な興味は江戸時代から明治維新で留まっています。しかし、その明治維新の歪みと矛盾が生み出した新政府と新しい日本社会の姿に、すでに後の戦争の影が色濃く出ていたのではないかという疑念は、この本を読んでやはりぬぐい去ることはできませんでした。そして一番ショックを受けたことは、同じことは今の日本にも起こりうるのではないかと感じてしまったことです。

・・・ガダルカナルこそ太平洋戦争の縮図だと言うことが分かりました。大本営と日本軍の最も愚かな部分が、この島での戦いにすべて現れています。いや、日本という国の最もダメな部分が出た戦場です。
だからこそ、ガダルカナルのことはすべての日本人に知ってもらいたい!

夜郎自大とはこのことだ。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小村寿太郎も国民的な非難を浴びた。反戦を主張した新聞社もまた焼き討ちされた。
私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だったと思っている。この事件以降、国民の多くが戦争へと向かっていった。

 これら言葉は特攻隊員の生き残りの老人がこの小説内で語るものです。これは「マスゴミとそれに踊らされる愚民」とか「政治的決定には民度が表れる」みたいな無責任な態度で片付けてはいけないことだと思います。なぜマスコミはそういう論陣を張り、なぜそれが世間に受け入れられるのか? 「一人一人はそれなりの人間であっても、それらが集まって大衆を形成すると愚かになる」が真だとしても、それが受け入れられる下地が私たちになくてはなりません。その鍵は歴史にあると私は思います。

 戦後生まれ変わり平和ぼけした日本。しかしその根本にある日本人の資質、社会全体の空気は、この小説に書かれていたものと大きく変わっているように思えません、無能な官僚組織があり得ない施策をもって、人々の良心や正義心につけこみ、使い捨てにし、そして誰も責任は取らない... という構造が繰り返されることが想像すらできないと言い切れるでしょうか? どんなに社会体制が変わろうとも、そういうことを少なくとも我々は500年ほど繰り返してきたはずです。

 ずるいと思われるかもしれませんが念のために書いておくと、先の大戦が自衛の戦争だったのか、侵略戦争だったのかについては私は持論を持ちません。そしてこの本もそれについては語っていません。しかし、開戦についてはともかく、戦争の進め方、そして終わらせ方は決定的に間違ったのではないかと思います。いかにも日本人的なやりかたで。


 この小説を読んだことで戦争のことを考え、語るのは野暮なことなのかもしれません。この本が最終的には小説であることの証拠に、結末には小説的な見事なオチが待ち構えています。薄々感づいていたことと、全く予想を裏切られるどんでん返しがいっぺんにやってきました。「生きること」にあれほどこだわっていた宮部久蔵の最期。彼を突き動かしたものは何だったのか? その最後の決心を思うと、彼にまつわる物語がいかにフィクションであるとは言えガツンと殴られたようなショックを受けました。

 だとしたら、やはりこの台詞が一番グッときます。

愛してる、とは言いませんでした。我々の世代は愛などと言う言葉を使うことはありません。彼は、妻のために死にたくない、と言ったのです。それは私たちの世代では、愛してるという言葉と同じでしょう。

 内容が重かっただけにかなり長くなりました。最後に、この小説を読んで思い出したものは二つあります。一つは浅田次郎の「壬生義士伝」です。時代も題材も全く違うのですが、なぜか今作の宮部久蔵が、浅田次郎氏の書いた吉村貫一郎に重なりました。そしてもう一つは音楽です。サンボマスターの「戦争と僕」という曲があります。「僕と君の全てをロックンロールと呼べ」というアルバムに収録されています。なぜそう思ったかについては、書き始めるとまた長くなるので、ここらでやめておきたいと思います。