酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

あんちゃん

あんちゃん (文春文庫)

あんちゃん (文春文庫)

夫婦の気持ちのすれ違いを巧みに描いた「冬隣」、江戸に出てきた若い百姓が商人として成功した後に大きなものを失ったことに気づく表題作「あんちゃん」など、江戸を舞台にしながら、現代にも通じる深いテーマの数々を、時代小説の名手が描ききる。冷えた心に、ほんのりと明かりを灯す、珠玉の全七話。

 本屋さんに平積みされていたこの文庫本の帯には「追悼」の二文字がありました。この本の作者、北原亞以子さんは今年の3月に亡くなったばかりなのです。しかしこの本は、その文字通り追悼のために急遽企画されて発行されたものではありません。2010年に単行本として発売された短編集を文庫化したものです。

 文庫版にしてわずか250ページ程度に七編の短編が収められており、一つ一つは本当に短い物語です。それにしても、北原作品と言えばシリーズものか、あるいは長編ばかり読んできたような気がして、こういう純粋な短編も書いていたんだなぁ、と今更ながら知りました。

 実は表題作の「あんちゃん」だけが例外なのですが、それ以外の六編は全て女性が主人公となっています。そして同時にこの六編はどれも男と女の間に起こる複雑な問題、つまり恋愛の物語です。しかしそこはハードボイルドな北原節が冴え渡り、あたりまえの甘ったるい色恋沙汰では終わりません。たとえば...

 「いつのまにか」のお俊は、常に見えない何かを恐れています。

こんなに平穏無事でいられる筈がない。きっと何かが起こるに決まっている。そう考えてしまうのだ。

 どうするとここまで物事を悲観的で自虐的に考えることができるのか? あまりにか弱くて頼りないお俊の姿にハラハラさせられたあげく、最後は自らの力でその「不幸な何か」をはね飛ばそうとする姿に度肝をぬかれてしまいます。でも、本当にそれで良かったのか? 彼女の心残りは読者たる私の心残りとなり、何とも言えない気持ちになりました。

 そして「帰り花」のおりょうは、どうしようもない衝動に突き動かされています。

恩人を探しているのだと言えば、おさよもわかってくれるだろう。が、文吉の子であるおさよに、壮七郎を探していると言うのは妙にためらわれた。

 冷静に考えたら、大人としてあり得ないほど身勝手な彼女の行動に「そんなことしてはいけない」と思う以上に、いつのまにか彼女の願いが成就することを期待して応援している自分に気づかされます。

 そしてお俊の場合と同じように、おりょうが選んだ道は本当に正しいのか? その犠牲の大きさにやはり何とも言えない気持ちにさせられるのです。

 それぞれの物語を読んでいる途中は、主人公たちの焦燥、絶望、そして時に恐怖... それらに押しつぶされてこれがまるで恋愛小説だなんて気がつかないくらいです。恋や愛と言った感情は、人を幸せにするどころか、こんなにも苦しめるものなのかと。では悲惨なだけの破滅的な物語ばかりかと言えばそうでもありません。結末はどれも基本的にはハッピーエンドな気がするのですが、実のところ確信は持てません。

 なぜなら主人公たちは、自分の恋心を実らせる代わりに、何か大きな代償を払うことになるのですから。そのことを思うと思わず深い息をついてしまうのですが、なぜか読後感は悪くありません。いえ、むしろ良いのです。と、なんだかやけに曖昧な感想を抱いてしまうほど、上手く説明の付かないくらい不思議で奥行きのある物語ばかりです。

 そんな中で、表題作の「あんちゃん」だけは異色の物語でした。ジャパニーズ・ドリームとも言えるストーリー展開。いっぱしの商人となったとある男が、自分のルーツへと回帰していく物語です。

世の中には馬鹿正直という言葉があるが、江戸にはそういうやつはいない。江戸にいるのは馬鹿か正直かどっちかだけだ

 悪者はいないのに、どうしてこうも世の中は切ない出来事ばかりなのでしょう。与兵衛の努力と気持ちを知っていれば彼を責める気にはなれません。しかし私は本当の部分で彼の気持ちを分かっていなかったことに、最後の最後で気づかされるのです。

 ということで、さすがは北原作品!と、全編に渡って十分に楽しむことができました。「次回作が楽しみです」と書けなくなってしまったことが残念で仕方ありません。慶次郎縁側日記シリーズがまだ二巻未読があるのですが、未完のまま終わっているはずで読み切った後の寂しさを考えると、ちょっと手にするのをためらってしまいそうです。

 【お気に入り度:★★★★★】