酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

ビッグ・ドライバー

ビッグ・ドライバー (文春文庫)

ビッグ・ドライバー (文春文庫)

小さな町での講演会に出た帰り、テスは山道で暴漢に拉致された。暴行の末に殺害されかかるも、何とか生還を果たしたテスは、この傷を癒すには復讐しかないと決意し…表題作と、夫が殺人鬼であったと知った女の恐怖の日々を濃密に描く「素晴らしき結婚生活」を収録。圧倒的筆力で容赦ない恐怖を描き切った最新作品集。

Amazon.co.jp: ビッグ・ドライバー (文春文庫): スティーヴン キング, Stephen King, 高橋 恭美子, 風間 賢二: 本

 スティーヴン・キングの最新刊"Full Dark, No Stars"が日本語訳されるに当たり、昨年末に前半の二話が"1922"というタイトルの文庫版で発売されましたが、このたびようやく後半二話が"ビッグ・ドライバー"というタイトルで同じく文庫化され発売されました。当初は3月発刊予定となっていたので楽しみにしていたのですが、実際は1ヶ月ほど遅れてようやく発売されました。ここ最近は本屋さんに行く度に文庫新刊コーナーをチェックしつつ、待ちわびていた本です。

 前刊の"1922"は救いがなくひたすら暗くて悲しい物語で、まさしく"Full Dark, No Stras"という原語タイトルにふさわしい、どこまでも絶望感しか残らないおぞましくて目を背けたくなるような物語でした。今作に収められた二編も、基本的にはどうしようもない状況に追い込まれ、悩み迷った末に殺人を犯すことになる「普通の人々」の姿を描いているという点で、"1922"と同じプロットであると思うのですが、なぜか物語の雰囲気、読後感は全く異なります。というかむしろ全く正反対です。一度は真っ暗闇に投げ出されはするけれども、物語が進むに従って星のかすかな光は見えてくるのです。

 それは今作の主人公が二作とも女性であることに関係しているのかもしれません。欲望、恨み、あるいは正義感。他人の命を奪わなくてはならない事情はそれぞれです。しかし、ウィルフレッド("1922"の主人公)を追い込んだ動機は、どちらかというと「私欲」のためであったのに対し、テス("ビッグ・ドライバー"の主人公)とダーシー("素晴らしき結婚生活"の主人公)を行動に駆り立てたものは「正義」であるように思えます。

 もちろんキングがたまたま物語としてそのように描いただけなのかも。しかしどの物語も、主人公の性別を入れ変えてしまうと成り立たないような気がするから不思議です。キングは巧妙に世の中の仕組みと人々の心理を利用し、結末に至る激しい温度差を作り出しています。どこまでも転落して行き、最後は報いを受ける男に対し、悪に対峙し正義の鉄槌を下す女性たちは、ギリギリ生き残るすべを見つけるのです。

 犯罪者をヒーロー(ヒロイン)として描くことで視聴者の共感を呼び起こし、しかも最後に逃げおおせてしまうという物語は、社会倫理的に問題とされるので、映画やテレビドラマにならない、と聞いたことがあります。どんな善人であっても、どんなに止むに止まれぬ事情があっても、犯罪を犯した主人公は最後には報いを受けることになっていると。もちろん例外もあるかもしれません。しかし小説の中では、特にこの小説の中ではそうではありません。

 運命のいたずらに翻弄され、どうしようもない状況に追い込まれていく彼女たちに対し、読者たる私たちは「やっちまいな!」と声援を送ることになるのです。その声にテスはこう答えます。

「わたしになんの得がある?」戸口にすわって輝くグリーンの瞳でこちらを見ているフリッツィーに向かって尋ねた。「それでわたしになんの得があるって言うの?」

 彼女たちはスーパーウーマンではありません。高潔な理想に燃えている聖人ではないし、逆に何かにとりつかれた異常者でもありません。ごく普通の人々。本書の最後に収められている筆者あとがきでも触れられていますが、キングの描くのは「普通の世界にやってきた特殊な人々」ではなく、「異常な状況に置かれた普通の人々」なのです。「わたしになんの得があるの?」と問いかけてくる彼女たちは、おとぎ話の中のヒロインではなく、私たちの隣人、あるいはもしかしたら自分自身の姿なのだと思います。

 そして最後、全てをやり遂げたダーシーの前に、謎の老人が立ちはだかります。やはり彼女は最後に報いを受けることになるのか?「いかなる理由があろうとも殺人は許されない」...というこの社会の建前はぜったに破ることができないのか? しかし老人はこう言います。

あたなたは正しいことをしましたよ!

 これは老人の姿を借りた私たち読者の声そのものです。そう、建前なんてくそ食らえ! と、どこまでも痛快でしかし大声では言えない、読者と彼女たちの間だけの秘密のお話。罪悪感を感じつつ「実はね...」と、秘密を共有するものたちだけの間でひそひそ話で伝わっていく類いの物語です。


 以下余談です。ここに書かれていることが全てとは思いませんが、アメリカの社会で性犯罪がどのようにとらえられているかと言うことも、この小説からはうかがい知ることができるように思います。フィクションではありますが、それだけにかえってそのエッセンスが凝縮されているようです。多くの性犯罪の根底には、教育や経済、宗教や歴史などなど、広範囲にわたる社会の歪みがあるのでしょう。一時の衝動を抑えるための表面的な対処では解決し得ません。麻薬におぼれるくらいなら合法ドラッグを与えてしまえ、というのはナンセンスきわまりなく、むしろ事を悪くするばかりです。

 【お気に入り度:★★★★☆】