酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

1年前の写真日記

 今日で東日本大震災から一年が経ちました。この悪夢のような災害については人それぞれ色々と思うところがあると思います。今日は特に1周年という区切りの日なので、テレビでは特集番組が組まれているし、ネットにもそれに関する話題が溢れています。私もせっかくブログを書いているので、何か気の利いたことでも書きたかったのですが、色々と思うことがありすぎてうまくまとめることが出来ません。
 だったらいっそのこと、今日一日はブログもツイッターでも黙っていようと思っていました。もちろん、黙ってたり他の話をしているからと言って、何も考えていないわけではないし、逆に何かを書いたからと言って、それが考えていることのすべてというわけでもありません。要は人それぞれです。

 そんな気持ちでツイッターのタイムラインを眺めていたら、昨年の3月11日に撮影したという写真が貼られているのをいくつか見かけました。それらは地震や津波の被害を写したものではなく、どれも何でもない日常風景の範囲を出ないものばかりです。幸い大きな被害は受けることもなく、あの日はここにいてこれを撮った... と言うだけの記録です。それを見ていてふと思い立ち、自分のiPhoneの中を見てみたら何枚か昨年の3月11日に撮った写真が出てきました。

 それらは本当に何でもない写真ですが、私にとっては3月11日の記憶そのものです。私自身が被災したわけではありませんし、ましてや楽しかった思い出ではありませんし、誰かに役立つ写真でもないし、「忘れないために」とか「復興を願って」とか格好良いこと言うつもりもありません(そう思ってないという意味ではなく)。ただ、被災した多くの人のことを思う気持ち、復興についてあれこれ思うことなども、私にとっては自分が見た3月11日から考えはじめるしかないのだと思います。

 ということで、主に自分の精神安定のために、2011年3月11日に撮った写真を眺めつつ、まとめておこうと思いたちました。写真は全部で10枚です。同じものを何度か撮り直したりしたものを除けば、この10枚こそがこの日撮ったすべてです。基本的にはこれらのほとんどは当日のツイッター経由でアップロードしたものばかり。そのログにすべて載っていますが、改めてまとめておきます。

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 朝、出勤途中のJR錦糸町駅で撮影した東京スカイツリー。634mに到達する少し前で、まだクレーンがたくさんついています。この頃は少しずつ姿を変えていくスカイツリーを毎日のように撮影していました。東北の被災地の映像はどんよりと曇ったものばかりですが、東京ではこの日の朝はこんなに綺麗な青空が広がっていたんですね。

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 私はなぜかお昼ご飯に食べたものの写真を撮る癖があるのですが、この日の昼食はこのステーキランチだったようです。この写真を見れば食べたお店も思い出せます。今でも昼食のローテーションに入っているお店です。このステーキランチは普段は滅多に食べないメニューで、過去2回くらいしか食べた記憶がありません。どういう風の吹き回しだったのだろう?

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 この写真のタイムスタンプを見ると15:07となっています。まだ津波はどこにも到達してない時刻で、テレビの報道も混乱していました。
 地震が発生したとき私は品川の高層ビルの17階にいました。免震構造のビルで立っていられないほどの妙な揺れ方をし、倒れそうな高価な機材を押さえつつ、床の上をいろんなものが転がっていく様を眺めていました。こういう大きなビルは倒壊することはないと信じていたので、揺れてる最中でも身の危険は感じませんでした。

 揺れはなかなか収まらずビルはミシミシと音を立てながらずっと揺れ続けていました。窓の外を見るとお台場方面で煙が上がっているのが見えました。また同時に阪神淡路大震災のことを何となく思い出し、窓の下に見える首都高速1号線や東京モノレールの高架は大丈夫だろうかと思って見たのを覚えています。

 無事報告の意味もあってこの写真をツイッターにアップロードしました。当初はこの火災だけでも大事件かと思っていたのに、その後は同じ方向に市原のガスタンクの大炎上が見え、さらにテレビからはこんな火事など忘れさせるような悲惨な映像ばかり目にすることになります。

 そしてなぜか午後のこの時間帯は空は厚い雲がモクモクと沸いていて何となく薄暗かったです。

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 帰宅の途につきました。会社から自宅までは12km弱。地図で経路を事前に確認し、iPhoneも充電して万全を期して出発。空はまたいつの間にか晴れていて月が綺麗に見えていました。電車は端から諦め駅とは逆方向に歩き始めました。

 携帯電話はなかなか通じないものの、ネットは生きていてiPhoneからも多少重たいものの、普通に色々なサービスにアクセスできました。この時、ツイッターは本当に役に立ちました。フォローしている人達の安否や動向が分かり、特に親しい友人達とは状況報告に使っていました。家で待つ家族に現状を報告する人、休憩所や避難所として開放されている施設の情報、道路や街中の様子などなど、いろいろな情報が飛び交っています。

 情報伝達メディアとしてのネットはいろいろな問題を抱えていますが、この時私が体験した範囲では頼りになるライフラインの一つでした。そして、やはりテレビは非常に重要で影響力の大きく、基本的に信頼度の高いメディアだなということも実感しました。テレビについてもいろいろな問題がありますが、テレビを通して伝わってくる東北の被災地の映像は、何よりも説得力を持っていたと思います。

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 途中通過した芝浦あたりの夜景。街の眺めは一見何でもないようです。福島の原発で何かが起きていることはもう伝わってきていましたが、まだ節電は始まっていませんでした。とぼとぼと歩きながらも何だか夜景が綺麗だなぁ、と思ったのを覚えています。これ以降、東京は真っ暗に沈んだ街となります。最近はだいぶ戻ってきていますが、消えたままの照明などはまだまだたくさんあります。

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 本来駅に近寄る予定はなかったのですが、若干ミスコースをしてJR浜松町駅にやって来ました。電車が動くことに期待はしていなかったのですが、駅に行けば何か情報があるかも?と思って改札まで行ってみました。普段運行情報を表示しているディスプレイにはテレビ放送が映されていてたくさんの人が見入ってる一方、JRは少なくとも今日いっぱいの運行はない、と断言していました。何となく、人混みの中にいると安心感があります。

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 築地に到達。ここで新聞の号外が配られていました。その新聞を見ても何も目新しい情報はないのですが、なぜかもらってしまいました。この号外はその後しばらく取ってあったのですが、結局捨ててしまいました。

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 そして永代橋へ。この写真ではよく分かりませんが、墨田川は見たことないような速さで流れ、いくつもの大きくて激しい渦を巻いており、橋脚には波しぶきが立っていました。この時初めて東京湾にも津波が来たことを実感。
 誰も予想しなかった大災害が発生している中で、どこにどれだけの津波が来るのかこの時点で分かっていた人はいないはずです。被災地でもここまでは津波が来ないと思い込んで亡くなった方も多くいると聞きます。同じように、東京には津波が来るわけない、と私は頭から信じ込んでいました。もちろん、結果的に東京には津波の被害はほとんどありませんでした(千葉県では東京湾側でも一部被害が出ています)。でも、あの時点でどうしてそんな確信が持てたでしょうか? 結果如何に関わらずあの判断は間違っていたのだと思っています。この隅田川の光景を見て少し恐怖を感じたのを覚えています。

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 ちなみに現在の永代橋は大正15年に建設されました。関東大震災で焼け落ちた橋に代わって架けられたものです。当時考えられた最新の防災対策がされた橋で、その後戦火もくぐり抜けたものですが、いかんせん86年も経過しています。次に東京に大きな地震が来たときは大丈夫でしょうか。
 橋の上は東に向かう人達で混んでいました。ヘルメットを被っている人もたくさんいました。車道にも車は溢れておりピクリとも動いていません。もしかしたらこの先で道路が通行できないほどの何かが起きているのかも?と思えるほどの渋滞でした。大都市での地震災害時に起こるであろうと予想されていた道路の機能不全問題が実際に起きていたことになります。もう少し揺れが強ければ、都心の幹線道路はすべて車両通行止めになったはずです。結果的にこの日は徒歩での移動が一番速かったと思われます。

 この後、私の家から自転車を貸すと約束をした友人と門前仲町で待ち合わせました。彼もほぼ同じようなルートを通って天王洲から歩いてきたそうですが、地震後テレビなどは見ていないので東北で起きていることを知らなかったようです。私が「多分、津波で何千人単位で死者が出てると思う」と言うとひどく驚いていました。この時点ではまだ、それほど情報伝達の度合いと認識は各人でバラバラだったのです。もちろん、私だって正確な情報を知っていたと言うわけではありません。結果的に亡くなった方は千人単位では済まなかったのですから。繰り返しになりますが、あの時点では誰も何も正確に起きていることを理解できていなかったということだと思います。

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 そして自宅にたどり着きました。友人に自転車を貸してその姿を見届けて家の中へ。いろんなものが落下してめちゃくちゃになっていました。でも建物は問題なく電気もガスも生きています。ただし、残念ながら我が家は断水していました。周辺水道管などのインフラの問題ではなく、私が住む建物の貯水タンクが壊れたことが原因。応急処置で水は翌日夕方に復旧しましたが、結局夏前に水回りを大工事をして最終的に復旧しました。

 この後は、深夜まテレビに釘付けになっていたことを覚えています。余震は続いており「いったい何が起きているのか?」を知らなくてはならなかったから。そして地域の防災無線が「電力が不足しているので節電するように」と広域放送をはじめました。
 そして翌日になると... 津波の被害が次第に明らかになるとともに、原発事故が深刻度を増していきます。自分のまわりは今のところ何ともないけど、これまでのような普通の生活は失われてしまったかも... と覚悟したことを良く覚えています。1年後にどうなってるかなんて予測がつきませんでした。

 以上が私の2011年3月11日です。