酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

無題

 独り言です。

 若い頃からヘビースモーカーでごく普通のサラリーマンだった彼は、24年前に結核を患い1年間隔離病院で過ごしました。ある日病院に検査を受けに行くと言ったまま帰宅せず、それどころか一緒に過ごしていた家族までが結核菌の感染検査を法的に義務づけられ、すぐに保健所送りになりました。幸い誰にも感染していませんでしたが。隔離病院で1年過ごした後、完治して社会復帰。もちろん病院生活で強制的に禁煙。それどころか嫌煙派に宗旨替えさせられていました。

 その後13年間は一見健康そうで普通に暮らしていましたが、今から11年前、ちょうど60歳の定年退職目前に、次はアスペルギルス症という、やはり肺の病気を再び発症。この病気は非常に重症化し、結局外科手術により右肺1/3を切除。3ヶ月の入院生活中の1/3近い期間をICUで過ごし、その病院におけるICU長期滞在記録を更新したほどでした。しかもその途中で一度、医師から危篤宣告をされ、家族が慌てて親戚中に電話をかけまくった後で、まさかのV字復活。葬儀のつもりで集まってきた遠方の親族たちは、お見舞いだけして早々に帰って行くことになりました。

 退院後は仕事も辞めて、あちこちふらふらと旅に出かける優雅な隠居生活へ。しかし2度の病気で弱った肺は元通りになるわけもなく、いまから6年ほど前に気胸(肺に穴があく)に掛かって救急車を呼ぶ事態に。でも、このときは大して手こずらずに2週間ほどでまた退院。優雅な生活に復帰しました。

 その後もまた5年間は普通に暮らしていましたが、今からちょうど一年前、息苦しさを感じることが増えてきました。幸い呼吸器専門の非常にいいお医者さんに出会うことができ、8ヶ月ほど通院治療していました。当初は三度の病歴と老化から来る肺気腫の治療を行っていましたが、昨年末あたりから急速に進行したのが「特発性間質性肺炎」という、難病に指定されている非常に珍しくてやっかいな病気です。現時点の医学では根本的な治療方法はありません。

 今年の2月になってから、一度症状が悪化して入院。ステロイド剤の投与などで対症治療を行い、なんとか落ち着きましたが、退院後は在宅で常時酸素吸入をすることになりました。自宅にはレンタルの家庭用酸素発生器を設置し、外出時は携帯用の酸素ボンベを使うことに。自力で歩き回ることはできるのですが、行動範囲が大幅に制限され、もはや遠くへ旅に出かけることはできません。自宅の周囲を散歩する程度が限界です。その間、公的な障害者認定と難病指定を受け、医療費や公共交通費などで優遇を受けられることに。「新しい車買うなら、俺の名義にすれば税金安くなるぞ!」と半分冗談で言ってたりしたものです。

 そんな不自由な生活にも慣れてきた頃に東日本大震災が発生。幸い自宅に大きな被害はなかったのですが、原発事故によって引き起こされた電力不足問題は、切実な不安をもたらしました。なぜなら家庭用の酸素発生器を動かすには電気が必要だから。外出時の携帯用の酸素ボンベにも電池が必要です。そして何かあったときには速やかに病院に行かなくてはなりませんが、混乱してガソリンも手に入にくかった時期には、心配ごとが絶えませんでした。しかし幸いなことにそれらは杞憂に終わりました。

 そして先月末のある日曜日。直前の夕方まで普通に何事もなく過ごしていたのに、突然異常を感じて夜中に病院へ。酸素飽和度を計ってみるとたったの80%しかありません。通常の人なら息苦しいでは済まないくらいの低い値です。応急処置をしてもらいそのまま入院。しかしその夜のうちに症状は急激に悪化し、翌朝には酸素流量を最大まで増やしても血中の酸素飽和度を保てなくなり、人工呼吸器を装着して、ステロイドと抗生物質が効くまでの時間を稼ぐことに。医者から治療方針の説明を本人が直接聞いて同意。「それでもし薬が効かなかったらそれまでってことかね...」ってつぶやいてました。

 人工呼吸器をつけICUに入ってから一週間、一時は回復の兆しも見せましたが、基本的には悪化の一途。検査結果によると間質性肺炎の増悪が猛烈な勢いで始まっており、こうなると苦痛を緩和するのが精一杯と、医者から家族への説明がありました。残された時間は「早ければ明日、遅くても3週間」との宣告。その3日後には「長くても明日」と言われました。

 人工呼吸器をつけていると声を発することができず、そもそも同時に麻酔や鎮痛薬なども投与しているために、意識はあっても普通の状態ではありません。しかし人の顔の判別や言葉の理解、意思の伝達はできていました。特に亡くなる前々日に孫たちがお見舞いに来たときは、満面の笑みでニコニコと笑いかけ、手を差し出したり。また信頼している主治医の先生が来ると笑いかけて挨拶するようなそぶりを見せたり、一方で反対に嫌いな医者が来るとむすっとして無視。正気なのか正気じゃないのか、よく分からない状態でした。

 そんな中、家族に対してはしきりに何かを伝えたがっているようだったので、ペンを持たせてみたりしたものの、字をまともに書くこともできません。もどかしげに喋ろうと口を動かしてみたりもしますが、その言葉を家族はなかなか読み取ることができませんでした。このまま何を言いたがってるのか分からずに終わってしまうのだろうか?と思っていたある日、やっとのことで唇を読み取ることができました。

 しきりに言っていた言葉は「かえる」でした。「家に帰りたいって言ってるの?」と聞くと、ぶんぶん首を縦に振ります。う〜ん... これは参ったな...。だってそれは到底無理なんだよ... と思いながら「分かった、お医者さんにお願いしてみる」と答えるのが精一杯でした。伝わったことで満足したのか、それ以来二度と「かえる」とは言わなくなりました。

 最期は血圧と脈拍が低下し眠ったまま息を引き取りました。「長くても明日」と言われてから2.5日後のこと。医師の見立てよりも1.5日長く生き延びたのは、意地のなせる技でしょう。

 で、薄々お気づきでしょうが、これは私の父親のことです。年老いた親を亡くすと言う経験は特に珍しいことではありませんが、一人一人の人生の結末は、二つと同じものがない人それぞれの経験なのだと思います。せっかく文字に残す場が私にはあったので、このブログのテーマからは大きく外れますが、書き留めておくことにしました。

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 最後に、その呼吸器内科のお医者さんは私たちに向かって「特発性間質性肺炎については、遺伝だとも、たばこが原因とも断言はしませんが、この二つの組み合わせが無関係とは思えません。ですので、息子さんやお孫さんなど、血縁の近い方は同じような病気になるリスクを避けるために、たばこだけは絶対に吸わない、吸わせないことを強くお勧めします」と言いました。
 私は過去を含めてたばこを吸っていないのですが、この言葉は非常に響くものがあります。不確実なことでありながらも、医者としての良心からいただいたアドバイスであり、それは本当に父の病気のことも真剣に看てくれた証拠でもあると思います。