酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

似せ者:松井今朝子

似せ者 (講談社文庫)

似せ者 (講談社文庫)

 

  松井今朝子さんお得意の歌舞伎を題材にした時代小説です。講談社文庫が発行している松井今朝子さんの本は、行きつけのいくつかの本屋さんではなかなか見つからず、手に入れるのに少し苦労しました。この「似せ者」は四編の独立した物語が収められた短編集です。いや、一話の長さ的に見ると中編集といった方が当たってるでしょうか。今回も松井今朝子さんの、歌舞伎に関する深い造詣と、鋭い視点、美しい文章、そして物語力が遺憾なく発揮されています。

 第一話がタイトルナンバーとなる「似せ者」。江戸ではなく京都の芝居小屋で人気を博した、伏見籐十郎の二代目の誕生秘話。第二話の「狛犬」は、市村座の舞台でお互いを引き立て、引き立てられ、嫉妬し反目しつつも、狛犬のように切っても切り離せない二人組と言われた、市村助五郎と大瀧広治の友情の物語。第三話の「鶴亀」は、大阪は道頓堀の芝居小屋を取り仕切った"お仕打ち"(=小屋の支配人みたいなもの)と、当時の看板役者、嵐鶴助の腐れ縁の物語。そしてラスト第四話の「心残して」は、幕末の江戸は市村座で、囃子方の見習いをしていた杵屋巳三次と、舞台でのど自慢をしていたとある旗本次男坊の不思議な縁の物語です。

 これらの四編で取り上げられた役者などは、事実がどうだったかは別にして、実際に資料に名前が残っている人々だそうです。有名な大名跡だけでなく、華やかな江戸の三座だけでもなく、独自の歴史や成り立ちや文化を持った、大阪や京都の歌舞伎をも題材にして取り上げているのは、さすが松井今朝子さんです。

 それにしても、第四話の「心残して」はとても衝撃的でした。他の三話を忘れてしまうくらいに。いや、それは一番最後に読んだからというだけが理由ではありません。他の三編もどれも江戸時代の芝居の舞台裏とその面白さや、人間模様の機微を描いた素晴らしい小説ですが、最後の一話は別格です。それはこの一話が、歌舞伎の世界だけではなく、幕末の江戸の風景と人々の暮らしと、そこの関わった旗本の武士の運命をも同時に描いてるからに他なりません。どちらか片方だけでも十分に小説のネタになるのに、松井今朝子さんはこの二つを見事に掛け合わせてしまいました。

 江戸の町人からみた幕末の風景。これは昨年来の私の密かな読書テーマでもあります。最近そういう本に出会ってなかったですけど。ここに収録された「心残して」は、図らずもそのテーマにピタリとはまった一話でした。タイトルの「心残して」という言葉も、芝居がかっていて、何とも言えない深い意味を持っています。

 巳三次がその武士の唄を初めて聞いたときの様子が、以下のように書かれています。

シャンと撥を振り下ろし、傍らに立つ男の口から声が発せられた刹那、巳三次は耳元が熱くなり、首筋がぞくっとした。

 音楽はもちろん、映画でも絵画でも写真でもなんでも、そういう瞬間ってありますよね。私にとっては時代小説を読んでいて、素晴らしく粋な人の粋な言葉に出会ったときでしょうか。例えば次のような...。

ちょっと前までこの国には本物の武士が大勢いた。武士は物事を損得勘定で考えなかった。負けるのを承知で戦って、潔く死んでいった。人は何がえらいといって、それほどえらいことはない。しかし何が馬鹿だといって、それほど馬鹿な話はないのだ。

 これは武士を礼賛し、ステレオタイプな武士道を崇めているのではありません。むしろその逆です。なぜならば、そのすぐ後にこう続くからです。

人殺しの道具なぞ手にせずとも、自分は三味線一挺を武器に世の中で立派に戦えたのだ。

 このくだりを読んで、私はカァッと目頭が熱くなり、首筋がゾクゾクしてきました。

 お勧め度:★★★★★ (「心残して」のためだけにこの一冊を手にする価値があります)