酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

それぞれの忠臣蔵:井川香四郎

それぞれの忠臣蔵 (時代小説文庫)

それぞれの忠臣蔵 (時代小説文庫)

 

  いつものように本屋さんの文庫コーナーをぶらぶらとしているときに目に留まって、中味もほとんど確認せずに買ってしまった本です。というのも「忠臣蔵」とくれば読まないわけにはいきません。とはいえ、新刊らしく一応平積みしてあったのですが、「なぜゆえこんな季節に忠臣蔵?」と思わずにはいられません。忠臣蔵ものは通常本屋さんに並ぶのは、やはり年末が多いのです。まぁこれは古典中の古典ですので、季節なんて関係ないと言えば関係ありません。作者は梟与力吟味帳シリーズで人気の井川香四郎さんです。このちょっと意外な組み合わせにも興味を持ちました。

 忠臣蔵といえば、約300年以上前に発生した史実に基づく物語です。基本的なストーリー展開は既によく知られていて、ある意味誰でも物語の起承転結を知っているわけです。それを敢えて小説の題材にするからには、それ相応の工夫または特徴が必要です。しかも300年以上にわたり繰り返し繰り返し、手を換え品を変え、多くの人によって語り尽くされた物語。まだその工夫の余地はあるのでしょうか?
 これまでに私が読んだ忠臣蔵小説は二冊だけ。真正面から忠臣蔵を捉え直した大河小説、森村誠一氏のその名も「裏返し忠臣蔵」です。どちらも独特の特徴を持った忠臣蔵小説でした。そして今回の井川香四郎氏の「それぞれの忠臣蔵」は、忠臣蔵のストーリーそのものを追うのではなく、赤穂浪士達のなかから12人を選び、それぞれにとっての討ち入りまでの人生のドラマを集めた短編集形式となっています。

 赤穂浪士の個人個人にスポットを当てたという点では、森村誠一氏の「忠臣蔵」も近いものがあります。しかし、この「それぞれの忠臣蔵」では、討ち入りのシーンはほとんど出てきませんし、松の廊下の刃傷事件から浪士切腹までを順を追って進むわけでもありません。それらの基本的なストーリーを読者が知っていることを前提に、もっと極端に、というより直接的に、浪士達個人の物語に焦点を当てています。

 もちろん、ほとんどはフィクションというか、井川氏なりの解釈によって組み立てられたものでしょう。同じ人物を扱いながらも森村氏の書いたストーリーと大きく違う点がたくさんあります。本当はどうだったのか?ということにとても興味はありますが、残念ながら各浪士達の生活の詳細を知る術はもうありません。だからこそ却って、事実はどうだったか?ということは、もはやこの忠臣蔵の世界には関係ないと言えるのでしょう。

 この小説は古典的な忠臣蔵のような、華やかで格好いいヒーロー物語ではなく、命を落とすまでに辛く苦しい思いをし、人知れぬ葛藤をしたに違いない生身の人間の姿が描かれています。ヒーロー的な扱いを受けているからこそ、これらの短い物語の中に込められた、浪士達の強い忠義の心と純真さと悲劇的な運命に、感動して打ちのめされるばかりです。

 最後の一遍、近松勘六行重の物語に出てくる一説に以下のような言葉があります。

「--その男が虫の息で言ったのです。この卑怯者・・・卑怯者・・・武士の魂の刀まで奪うとは・・・やはり夜盗じゃ・・・おぬしらは夜盗じゃ・・・そう言って睨み上げてきたのです。」

 斬る側も斬られる側も人間です。そこには忠義も体面も正義もなにもありません。


 お勧め度:★★★★★ (忠臣蔵が好きな方には特にお勧めです)