銀座開花おもかげ草紙:松井今朝子

投稿者: | 2009年6月26日
果ての花火―銀座開花おもかげ草紙

果ての花火―銀座開花おもかげ草紙

 

  これは完璧にやられました。ショックを受けたと言ってもいいかも。想像していなかった展開で号泣一歩手前です。タイトルから感じられるように、どことなく平和で、柔らかくて暖かくて、希望に満ちたほのぼのした人情味溢れる雰囲気の物語は、いつしか、時代の波に飲み込まれてもがき苦しむ人々の、行き場のないやるせない怒りに満ち溢れ、それら過去の遺産を清算するために、悲劇的な展開を見せていきます。この本は武家に生まれながら、若年のうちにご一新を迎え、苦労をしながら明治の世を作り上げていった人々の物語です。

 時は明治七年、所は銀座。まさに明治維新による文明開化の中心地が舞台です。ペリーが浦賀にやってきた年に、旗本の家に次男として生まれ、二十代で維新を迎えた青年、久保田宗八郎が主人公。維新のゴタゴタで世の中に乗り遅れ、若くして世捨て人のような暮らしを続ける宗八郎が、ひょんなことから銀座のど真ん中で暮らし始めることとなったところから物語は始まります。

 新旧が入り乱れつつ、日々発展を遂げて移りゆく銀座の街の風景や、そこにもたらされる様々なニュースにより、世界の広さと、日本の未来への希望と不安を嫌が応にも感じながら、一方で宗八郎の周囲には運命の糸でたぐり寄せられたかのように、色々な出来事が絡み合い、人々が寄り合いながら、宗八郎はとうとう避けて通ることのできない、一つの出来事、人物に辿り着きます。彼にとっての七年遅れの”維新”を迎えるために。

 この本は、主に維新後の元武士達の暮らしや不安をテーマに描いていると言う点では、浅田次郎さんの「五郎治殿御始末」などと、似たようなプロットを取っていると言えます。しかし、読み始めてそのストーリー展開から感じられる雰囲気は、かなり違うなと思っていました。この物語の中の元武士達は、新しい時代の幕開けと、近代国家としての日本の未来への希望を、その中心地とも言える銀座で満喫しているかのように展開していきます。

 しかし物語の後半、急転直下訪れる結末には、あっと驚かされました。読んでいて思わず鳥肌が立ちました。この結末はまさに浅田次郎氏の書く、幕末明治もの小説に近いものがあります。単にストーリーが似ている、と言うのではなく、松井今朝子さんも明治維新に対して、浅田次郎氏と同じような考えを持っているのではないかと感じました。

 それは以下のような文章に表れています。

「暦まで西洋に倣って、こんどのお上はほんとにどうかしている。この日本じゃ三月三日は昔から桃の節句と決まったもんだ。桃だって桜だってまだどこにも咲いてやしないじゃないか。こんなことしてたらそのうち五節句はみんな廃れちまうよ。」

「人は保身を願っておのずと力ある者になびき、しらずしらず口封じをされてゆく。しかし人が自らの弱さに甘え、勝てばなんでも通ると思いあがった連中に土下座をするあいだは清新な治世とやらも所詮夢物語に過ぎない。身を捨てる勇気なくして新たな世は生みだせぬと、維新の修羅場をかいまみた男は信じる。」

「語ってやれ。そうしてお前は旧き物語を後の世に伝えてやれ。いつの世にも人には物語が要る。お前が他人に語ろうとするかぎり、老人は死なない。物語の中で人間は永遠に生き続ける。」

 しかし… この本はシリーズものであったことを、最後に解説を読んで初めて知りました。この本はシリーズの第二巻で、第一巻として「あどれさん」が出ているそうです。そしてこの本の続編「果ての花火」もすでに発行されているとか。思いがけず読むべき本が増えたのは良いのですが、この結末は完璧に美しくまとまった、と思っていたので、前編はともかく、続編があると知って、ちょっと複雑な気持ちになりました。でも、多分読むと思います。いや、読まねば(A^^;

 お勧め度:★★★★★(「あどれさん」から先に読んだ方がいいようです)