酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

非道、行ずべからず:松井今朝子

非道、行ずべからず (集英社文庫)

非道、行ずべからず (集英社文庫)

 

  引き続き松井今朝子さんの集中的に小説を読んでいます。今回紹介する「非道、行ずべからず」は、江戸三座の一つであった中村座を舞台にした、歌舞伎小屋にまつわるミステリーものです。タイトルは「家、家にあらず」と同じく、世阿弥の「風姿花伝」の一節から引用した言葉だそうです。さて、これまたどういう意味なのでしょうか? 道徳観についてのお堅い物語なのでしょうか?
 松井今朝子さんは歌舞伎に非常に造詣が深く、以前はその世界で仕事をしていたそうです。この小説はその松井今朝子さんの、時代小説家であり歌舞伎研究家としての力量を同時に発揮した作品といえます。

 登場人物は中村座の太夫元、第十一代中村勘三郎をはじめ、立女形の太夫、荻野沢之丞やその息子達、その他端役の役者たち、作者の喜多村松栄、桟敷番の宇平次、帳元の善兵衛、道具方の清兵衛などなど、芝居小屋の興行を支える多くの人々に加え、芝居の内容を監視する役割を担っていた、町方の同心、笹岡平左右衛門も関係して複雑に絡んで物語は進んでいきます。

 ことは文化六年の元旦、火事に見舞われた中村座の焼け跡から、老人の絞殺死体が発見されたところから始まり、その後の中村座を揺るがす大騒動へとつながってゆきます。殺されていた老人は何者なのか? 誰が何故殺したのか? その謎を追う町方の同心たち。そしてこの事件によって生まれた中村座の面々たちの間の疑心暗鬼...。不信は不信を、事件はさらに事件を呼び、新たな謎を生み出していきます。

 全編に渡り緻密で深い人物描写というか、人間の心の奥底や人間関係の機微が表現された文章は流石です。そうしたリアリティある人々によって組み立てられた、江戸時代の中村座の空気。歌舞伎自体を全く知らず、江戸時代という見たこともない世界でありながら、読んでいるうちにまるで自分がその芝居小屋の一員であるかのように感じられるほど、引き込まれてしまいます。もちろん、ミステリーの部分も十分に楽しめます。結末の種明かしはちょっと不完全燃焼な気がしましたが。

 この「非道、行ずべからず」は「家、家にあらず」よりも前に書かれた小説ですが、物語の舞台は「非道、行ずべからず」のほうが40年ほど後に設定されています。タイトルの類似性が示すように、この二つの小説には同じ人物が登場するなどの関連性が持たされています。といって、シリーズものというほどではありませんが、この二作に加え、まもなく発行される「道絶えずば、また」と併せて、三部作となっているそうです。

 ということで、発行順序で言えば「家、家にあらず」の前にこの「非道、行ずべからず」を読むべきだったようで、またしても読む順番を間違えてしまいました。でも、両作を楽しむ上ではどちらから読んでも問題ありません。

 さて、タイトルの意味ですが、読み進めていくうちに次第に明らかになっていきます。
 

この道に至らんと思はんものは、非道を行ずべからず

 この小説で言うところの「道」とはもちろん、芸の道、です。当初思っていたような簡単な意味ではなく、もっともっと深いものがあるようです。

 お勧め度:★★★★★ (「家、家にあらず」とセットで読んでみてください)