酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

春風ぞ吹く:宇江佐真理

春風ぞ吹く―代書屋五郎太参る (新潮文庫)

春風ぞ吹く―代書屋五郎太参る (新潮文庫)

 

 またまた宇江佐真理さんの小説を読んでみました。この本は以前に読んだ「無事、これ名馬」の前編に当たるもので、太郎左右衛門の父、村椿五郎太の若かりし頃の物語です。いえ、正確には前編と言えるほど物語の関連性はないのですが、やはり「無事、これ名馬」を読む前にこちらの作品を読んでおいた方が、五郎太を始め妻の紀乃、母親の里江の人物像がもっとハッキリと分かってより楽しめるのではないかと思います。そういう意味で私は読む順番を間違えてしまいました。でも、そんなことはお構いなし。やはり宇江佐さんらしい爽やかですばらしい物語でした。

 この小説は小普請組の家に生まれた五郎太が、漫然と暮らしていた日常から、ある日人生の目標に目覚めて自らの境遇を変えて行くべく奮闘する物語です。その人生の目標とは「愛する人と一緒になる」こと。平凡ながらも重大な問題です。そしてそのために彼に与えられた唯一の手段は学問吟味を突破し役に就くことです。なぜなら小普請組とはいわば無職も同然。無職の男に大事な娘を嫁がせたくないという保守的な風潮は、現代の感覚からは計り知れないほど当時は強いものだったことは想像に難くありません。二十五歳になり恋をしたことで自分の置かれた境遇の気づいた五郎太。彼はその変えがたい自分の運命を変えていくため、無職の小普請組から脱して役職を得るべく狭き門の試験に挑んでいきます。

 五郎太は多くの小普請組の御家人と同様、幕府からもらえる禄だけでは生活が苦しいので幼なじみの経営する茶屋で代書の内職をしています。毎日通うこの代書こそが事実上の五郎太の本業といえるでしょう。代書の仕事の傍ら学問所にも通う五郎太は学問の筋の良さを教授に認められながらも、自分自身ではまったく自信が持てず時折不安になり挫折し諦めそうになります。ある意味五郎太はごく普通の平凡な若者に過ぎません。

 茶屋の片隅で営む代書業。大都市江戸に暮らしたり、たまたま行き交う人々の生活の片鱗を除くことができる仕事。この代書を通して多くの人と接し、その中から五郎太はいろいろな人生の生き方を学んでいきます。別れ別れの親子の通信、遊び人の若旦那が吉原の花魁に出す恋文、先生と呼ばれる人たちの人間くさい過去、田舎から出てきた老人が息子に宛てた涙の手紙...。そんな五郎太を取り巻く多くの個性的な人々、多くのドラマチックな人生。そしてその人と人との関わり合い、影響の与え合いが非常に緻密に描かれ、全体的に宇江佐さんらしい優しさが感じられる小説に仕上がっています。

 必ずしも出世するばかり、愛しい人と暮らすばかりが幸せな人生ではなく、人の生き方は色々あることを学びながらも、五郎太は結局初志貫徹し学問吟味を突破し役職を得、愛する人と家庭を築きその家を守っていいくことこそが自らの行くべき人生との決意を固くしていきます。いや、何も知らないときこそ迷っていたものの、多くの人の様々な生き様を知った後こそ、その決意を新たにしたようです。井の中しか知らない蛙よりも、大会を知った井の中の蛙のように。その気持ちは何となく分かる気がします。

 五郎太を取り巻く身近な人々の個性の強さも際だちます。なんと言っても武家の女としての強さを持つ母親の里江。彼女は続編の「無事、これ名馬」においても重要なキャラクターですが、この物語ではよりいっそうその存在は際だっています。さらに五郎太の愛する紀乃とその一家。茶屋を営む幼なじみの伝助、手紙を配達する彦六、昌平坂学問所の教授達、そして代書を頼みに来る人々。個性的なキャラクターに囲まれた中で五郎太は本来、もっとも地味で目立たないおとなしい目立たない人物です。そんな平凡な人物だからこそ、その悩みや迷い、そして決意がとてもリアリティを持って身近に感じられるような気がします。

 時代小説としてのポイントは、小普請組という無役の御家人の置かれた立場とその生活。そして学問吟味という制度の実際と意味が、五郎太の人生を通して詳細に絵が描かれています。そこには時代の差を超えて学歴偏重社会の原型を見るようです。世襲が当たり前だった封建時代において、試験制度というのはある意味新鮮なものだったのかもしれません。

 宇江佐さん自身による後書きを読むと、この小説がどうやって組み立てられたかが詳しく解説されています、それによると、どうもこの小説は全体を貫く構想があらかじめあったわけではなく、書きながら結末がどんどん変わっていったようなことが書かれています。これは実際のところ意外でした。読んでいるとそんなことは全く感じられないほど一貫性を持っているように思われます。特に主人公たる五郎太。彼の人物像は「無事、これ名馬」に至るまで少しのブレもありません。見事なまでに描き出された凡人とその人生。ちょっとだけ成功したけど、少し後悔もしている...。そんな印象です。

 お勧め度:★★★★★