酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

無事、これ名馬:宇江佐真理

無事、これ名馬 (新潮文庫)

無事、これ名馬 (新潮文庫)

 

 とても心温まるホッとする物語でした。文庫の新刊として本屋さんに並んでいたのですが宇江佐さんの作品というだけで即買いしました。タイトルがちょっと変わっていて、何となく武家ものかな?とは思ったものの中身が想像つかなかったのですが、読み始めてみれば江戸の町火消しの頭一家の物語でした。火事が多かった江戸において町火消しはヒーローであり男たちの花形職業。人々の命と財産と都会の秩序を守る公共サービスでありながら、そこに粋と伊達を追求したあたりはさすが江戸っ子です。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は「め組の喧嘩」事件から来ているようですが、"火事"という災難を幾度も乗り越えてきた人々の逞しさが強がりとなって出た言葉のような気もします。

 町火消しは大川の西に47組、深川に16組あり、これらは町奉行所の監督のものに編成された民間組織で、主に鳶職の人たちが勤めていました。火事が発生し半鐘が鳴らされると近隣の組が出動します。真っ先に現場に到着した組がまずは火元で纏をあげて消火件を獲得。組頭などが火事の状況を見て平人や人足たちに消火を指示していきます。当時の消火方法といえば、もちろん水も使われましたが主には延焼を防ぐ目的で周囲の建物を壊していくというのが主な方法です。火勢や風を読み誤ると被害が広がってしまうので組頭の責任は重大でした。纏はその消し口を決めていくための重要な目印。単なる自己主張の飾り物ではありません。もちろん火に巻かれる危険が一番大きく、勇気のいる役目です。火消しの人々があこがれの対象であり尊敬されたのは当然といえるでしょう。現代でも消防士は勇敢な職業として尊敬されていますよね。

 物語は大伝馬町近辺を担当する"は組"の組頭吉蔵の周辺で起こる人間模様を描いたもの。吉蔵の親戚と家族の男みんな"は組"の幹部たちです。そして火消しの男たちを支える妻や母や娘などの女たち。なかでも吉蔵の一人娘のお栄は、さすがに火消したちに囲まれて育っただけに、単なるしっかり者を超えて男勝りの啖呵を切る江戸っ娘です。

 全体を通して吉蔵の視点で語られているのですが、本当の主人公は吉蔵一家とは縁もゆかりもないとある旗本の一人息子、村椿太郎左右衛門だと言えるでしょう。太郎左右衛門はあるひ火事の現場でみた吉蔵たちの姿にあこがれて、吉蔵のもとに弟子入り志願をしました。というのも、彼は武家の跡取りの立場でいながらとても気が小さく、臆病者でしかも泣き虫なのです。子どもながらに両親や祖母らの期待を受けて、自らの心根を鍛えようと考えたのでした。

 さて、そんな吉蔵と太郎左右衛門の馴れ初めはやや無理があるというか、こじつけっぽいような気もしないでもないですが、読み進めていけばそんなことはどうでもよくなります。他人同士であるばかりか、どうやっても縁のできようのない、旗本と町火消しの頭という間柄でありながら、そんな吉蔵一家と太郎左衛門の不思議な関係が続いていきます。

 火事という災害(人災といったほうがいいでしょうか)につねに向き合う吉蔵たちの生活は緊張に満ちたものです。そうでなくても気の荒い男たちに囲まれた生活は殺伐としがち。そんな中に太郎左衛門は一種の爽やかさというか安らぎというか、とにかく吉蔵が経験したことないような全く違う空気を周囲に運んでできます。

 時代が時代であったなら、それこそ命をいつでも投げ捨てる覚悟で殺伐として緊張した生活を送るはずの武士の世界は、江戸の太平の時代にはすっかり様変わりしてしまいました。町人の吉蔵をしていらいらさせるほどのんびりと構えて覇気のかけらも見せない太郎左衛門。そんな彼がある日ふとこんなことを口にしました...

「昔はともかく、この泰平の世の中で死を以て贖わなければならないことなどあるのかと思います。人は与えられた寿命を全うすることこそ本望ではないでしょうか。」

 ここだけ抜き出すとどうと言うこともないですが、この物語の流れの中で吉蔵が聞かされることにはもっと深い意味がありそうです。



 この物語全体を貫くやわらかさというか優しさというか、とにかくホッと心が温まる読後感。これは単に宇江佐さんという女性が書いた小説だから... と思ったのですが、それだけではなかったようです。この作品は宇江佐さんは二人の息子を持つ母親としての気持ちから書いた、ということが作者本人によるあとがきに書かれていました。これを読んで改めて納得しました。吉蔵という火消し頭の目にすげ替えながらも、母親が子を見る気持ちで書かれた時代小説。とても新鮮です。

 人は誰かの兄弟姉妹なのか親なのか夫あるいは妻なのか、それは人それぞれで分かりませんが、誰でも誰かの息子・娘なのは間違いありません。

 おすすめ度:★★★★★