酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

白い息 物書同心居眠り紋蔵:佐藤雅美

白い息 物書同心居眠り紋蔵 (講談社文庫)

白い息 物書同心居眠り紋蔵 (講談社文庫)

 

 居眠り紋蔵シリーズの第7巻がようやく文庫本で発売されました。前作「四両二分の女」が出たのは3年も前のこと。ハードカバーでこの「白い息」が発行されたのとほぼ同時です。ちなみにシリーズ第一作目の「物書同心居眠り紋蔵」が発行されたのは実に14年前の1994年。NHKで金曜時代劇になったのが1999年頃。このテレビドラマでは紋蔵役が館ひろし、里役が風吹ジュン、その他谷啓とか桐島かれんとか中村梅之助とか蒼々たる役者が出ていました。主役の館ひろしはおよそ時代劇向きではないと思われたのですが、見事なまでに紋蔵役に嵌っていました。一家の主である紋蔵が子供たちを"さん"付けで呼ぶシーンが印象的で、時代劇としてというよりは現代にも通じるような家族ドラマとして楽しめるとても秀逸な作品でした。そのテレビドラマの印象が強くて、時代小説を読むようになってから真っ先にこの居眠り紋蔵シリーズを買ったものです。私にしては珍しい順序で手にした小説と言うことになりますが、あとから原作を読んでみてもやはりそのほのぼのとした印象は変わりませんでした。

 さて、紋蔵登場後10年以上が経過した最新作「白い息」ですが、紋蔵の立場に重大な変化が訪れています。それは、前作の最後でも触れられていますし、そもそも文庫本の帯にデカデカと書いてあるのでネタバレっぽいとは思いつつ書いてしまうわけですが、実は紋蔵は30年近くつとめた例繰方の物書同心から町方の花形である定廻り同心に出世しています。役所でのデスクワークから解放され居眠りする暇もなくなったものの、独特の髷を結い、独特の着物を着て受け持ち地区の番屋を巡りつつ「オッス」とかけ声をかけねばならず、下っぴきまで含めると100人近い手下の面倒を見る立場になり生活は一変します。読者以上に紋蔵自身がそのことに戸惑いを覚えてしまいます。

 しかし、定廻りになると言うことは経済的に以前とは比較にならないほど恵まれることを意味しており、出世に強い野心があるわけではない紋蔵とはいえ、その役職につけたことを喜び、なんとか自分の地位を守ろうとします。そこにはやはり人並みの出世欲、金銭欲があるのかと思えば、実はその欲心の裏にはやはり紋蔵らしい純粋な理由が隠されていました。ミスをせず、むしろ手柄を立てつつ、周囲の人々の顔色をうかがいながら自分の立場を守ろうとする紋蔵。その目的を知るに至ってやっぱりそうなんだ、とホッと安心してしまいました。紋蔵は定廻りになってもやはり紋蔵だったと。

 佐藤雅美氏の書く時代小説は考証が非常に優れていることで有名です。それは単に正確であると言うだけではなく、一般には知られていないような、普通の時代小説では取り上げられないような非常に細かい部分にも目を向けて、うまく物語の中に織り込まれています。特にこの居眠り紋蔵シリーズでは町奉行所のシステムが主題とも言えます。当時の警察組織、裁判制度の詳細、町方の役人たちの生活はもちろん、紋蔵たちが関わる事件を通じ、町人たちの自治組織、経済の仕組み、生活習慣などなど、その正確な時代考証からは当時の人々の生々しい生活感が浮かび上がってきます。そして、シリーズを通して繰り返し触れられるのは当時の刑法に当たる「御定書」の中身の解釈です。その運用のされ方や内容の矛盾点などなど。非常に興味深いエピソードばかりです。

 今回も全編を通していろいろな事件が起きますが、なかでも大きなキーテーマとしてあげられているのが「吹上上聴」です。将軍の前で三奉行(寺社、勘定、町)がそれぞれ裁きを実演してみせる吹上上聴を巡るどたばたは、彼らが現代のサラリーマンと何ら変わるところがないことを伺わせます。将軍が興味を持つようなおもしろい事件をとりあげ、先例に反しないようにしかも見事な裁きをしてみせる...。南町奉行所の一員として紋蔵は吹上上聴に適した事件の洗い出しと準備ために奔走します。定廻りとして事件の現場を扱う身でありながら30年に及ぶ例繰方の経験から先例にも明るい紋蔵は、図らずもそこで自身の能力を余すところなく発揮して見真美町奉行所の吹上上聴を大成功に導きます。しかし、同僚たちの顔色やメンツを気にしつつ、己の保身をも懸命に考える紋蔵。凡人にして人並みの欲も持った実に人間らしい姿。細かくて正確な時代考証とともに、紋蔵をはじめとする登場人物たちの人間像のリアリティが浮かび上がってきます。

 ところで、定廻りというのは役料(=給料)は他の役職とあまり変わらないものの、担当地域の町人たちからの付け届けが多く(それが禁止されていなかったor大目に見られていた時代だったそうです)収入は一般役人の10倍近くになったそうです。それだけに町方の役人たちの間ではポジション争いがかなり激しかったようです。人の良い紋蔵はそういった出世競争に疎いようでいて、しかし上役へのコネをしっかりと持ちうまく立ち回っていたりします。それにしても紋蔵はせっかく手に入れた定廻りの役目を守りきれるのでしょうか?その辺もこの7巻のポイントとなっています。

 さて、このシリーズはまだまだ続くようで、実はすでにハードカバーで第8巻の「向井帯刀の発心」という本が発行されています。昨年の1月の発売されているので、3年遅れの法則からすると文庫は再来年になってしまうのでしょうか。待ち遠しいです。

 aisbn:4062759632おすすめ度:★★★★★