酔人日月抄

東京下町に暮らす写真とPENTAXとスキーと時代小説とお酒とプジョーを愛するある男の日常

セル:スティーヴン・キング

セル〈上〉 (新潮文庫)

セル〈上〉 (新潮文庫)

 
セル 下巻 (新潮文庫 キ 3-57)

セル 下巻 (新潮文庫 キ 3-57)

 

 久々にキングの小説が文庫版で発売されました。帯も読まずにそのまま無条件でお買い上げ。この作品は2006年に発表とのことなので日本では単行本化されることなく、いきなり文庫化されたようです。他にも2006年発表作品がいくつかあるようなのでそれらも文庫で発売されるでしょうか? とても楽しみです。

 で、この「セル」ですが、読み始めて早々に「これは困ったなぁ」というのが第一印象。その奇想天外荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいほどのストーリー展開に呆気にとられてしまいました。しかしこれはキング作品においては珍しいことではありません。むしろ初期の自由奔放だった時代のキング作品に見られる特徴です。が、心の中で「なんだこりゃ?」と醒めた見方をしながらも、なぜか読み進めずにはいられないというところもまたキングならでは。どんな無茶な設定も綺麗で深くて壮大なドラマに仕立てられてしまいます。

 この本を読んだ多くのファン達が同じ感想を持っているようですが。これは「スタンド」に通じる世界観を持っています。崩壊してしまった世界(=といってもキング作品の中では常にアメリカですが)の中で生き残った人たちの旅の物語。そこには世界を崩壊させた首謀者たる得体の知れない巨大な「悪」と、それに対抗する少数の生き残りの人間達、という構図があります。今回もまた同様の構図。ただし主人公のクレイが荒廃したアメリカを旅する目的は実に単純明快。人間社会を守るためでも、悪を倒すためでも、真実を探しに行くためでもありません。ひとえに家に一人でいたはずの一人息子の身を案じての旅です。

 そしてクレイは一人ではなく、数少ない生き残りの仲間がいます。それぞれにそれぞれの事情をもち理由があって生き残った人たち。そして偶然でありながらもお互いを必要としあう旅の仲間達。「旅の仲間」の物語というのはもちろん「スタンド」然り、「ダークタワー」然り、そのほかにもたくさんの作品が同様のプロットで書かれています。キングに限らず冒険ファンタジーものはこの体裁をとっている物がほとんど。

 しかしキング作品の、そしてこの「セル」で特徴的なのは、主人公とその仲間達は極々普通の現代人であること。こんな設定にデモしない限りとうてい小説の主人公にはなり得ないような人物ばかりです。特殊な技能も精神も持ち合わせず、ひたすら自分の身を案じ、家族を案じ、恐怖におののき、絶望に押しつぶされそうになる弱い普通の人間達。彼らが世界が崩壊してしまった現実を受け入れて、その世界に順応し未来に希望を持とうとする姿は、荒唐無稽な設定の世界でありながらも妙なリアリティと親近感を感じてしまいます。

 「なんだこりゃ?」と感じた出だしを過ぎて読み進め、下巻にはいるともう完全に「セル」の世界に引き込まれてしまいました。荒唐無稽な設定でありながら宗教的というか哲学的ですらあります。そして、子供を救い出したい一心で必死にもがく男の感動的な姿...。結末はなんと言ったらいいのか分かりませんが、私はハッピーエンドと受け取りました(^^; ここは読んだ人によって感じ方が違うかもしれません。

 と、なるべくストーリーに触れないように総体的なことばかり書いてきたので、読んでない人には何のことやらさっぱりで、おそらくこのエントリーもここまで読んでいないことでしょう(A^^; 少し具体的なことに触れると、タイトルの「セル」とは原題"CELL"のままで =携帯電話 のことです。CELLという単語があまり日本人には馴染みがないためか、当初は「携帯ゾンビ」というとんでもない邦題訳がされる予定でした。「携帯ゾンビ」もある意味内容を的確に表していますが、これではキングファン以外は手を出しそうにありませんね(A^^;

 訳者あとがきにも書かれていましたが、キングは身の回りにあるいろいろな「物」を恐ろしい凶器に仕立てるのが非常に得意です。自動車はその代表。自動車やトラックがもたらす恐怖を描いた作品はたくさんあります。人間が生み出した身近なテクノロジーがある日人間に対して牙をむく、というのは荒唐無稽な話だと分かっていながらも、何となく誰もが無意識に漠然とした不安を感じている部分に強く訴えかけてくるものがあります。同様にキングは押し入れや排水溝、下水道に対する潜在的な不安を大きく煽ってきたりもします。

 そして今回のテーマはCELL=携帯電話。世界中で急速に普及した携帯電話は21世紀の我々の生活を大きく変えた魔法のツールです。が、一人一人に直接電波のメッセージを送り込んでくる機械。それはとても危険なテクノロジーではないのか?まさか... ねぇ。でも...?

 キング自身は私生活で携帯電話を使っていないそうです。もしかしたらキング自身が本当に携帯電話に対して何やら恐怖を抱いているのかもしれません。


 aisbn:4102193596お勧め度:★★★☆☆